みどり松のブログから転載しました。菅原道真という人が学問の神様である天神様という話は聞いていましたが、今ひとつ詳しいことは知らなかったのですが、この様な立派な人であったのですね。
藤岡寛次氏の『青少年のための誇りある日本の歴史』から、引用転載しました。
第五十九代宇多天皇の御代は、後世「寛平の治」と称へられています。また、『古今集』の成立した第六十代醍醐天皇(宇多天皇の皇子)の御代は、第六十二代村上天皇(醍醐天皇の皇子)の御代と共に、後世「延喜・天暦の治」として仰がれるやうになりました。
例へば鎌倉時代から南北朝時代にかけて、後宇多天皇(第九十一代)・後醍醐天皇(第九十六代)・後村上天皇(第九十七代)が次々に即位されてゐますが、みなさんはかうしたお名前の由来を知ってゐますか。すべて「後」という字が最初についてゐるでせう。
これは、平安時代の上記の三人の天皇にあやかって、ご自分もさういふ立派な天皇になりたいといふ意味で、在世中もしくはご遺言によってつけられたものなのです。
それでは何故、この御三方は後世にそんなに大きな影響を与へたのでせうか。今回はその中でも宇多天皇を中心に見てまいりませう。
宇多天皇
宇多天皇と菅原道真
平安時代初期に全盛を誇った唐風文化が、中期になると次第に国風に変わっていきましたが、宇多天皇はそのことを象徴するやうなお方でした。
この天皇には膨大な御日記が残されており、日々何を考へておられたかが、今の私たちにもわかるのですが、仁和四年(888)十月十九日の御日記には次のやうに書かれてゐるのです。
「我が国は神国なり、因って毎朝四方大中小天神地祇を敬拝す。敬拝のこと、今度より始めて、一日も怠ることなし」(原漢文)
日記はすべて一種の漢文(白文)で綴られてゐますが、その中身はと いふと全く唐風ではなく、日本は「神国」であるから、これから私は毎朝天津神・国津神を礼拝しよう、このことは私の代から始めるが、決して一日も怠ること のないやうにしようといふ、崇高な御決意が記されてゐます。
宇多天皇がこの日記を書かれたのは、即位後間もない頃のことで、この国をこれから背負って立たんとする青年天皇(当時御年二十二歳)の神々しいまでの御自覚が、千年以上の時を隔てた現代の私たちにも、ひしひしと伝わってまいりますね。
事実これ以後、(いつの頃からかは、はっきりしませんが)皇居の清涼殿には「石灰の壇」といふ拝所が設けられ、歴代天皇は毎朝そこに正座して、この国の平安を神々に祈られるのが、大切な日々のお勤めの一つになってゆくのです。
そしてこの宇多天皇が最も信頼した臣下が、誰あろう、菅原道真でありました。
菅原道真
菅原道真といっても、今の若い人は、御存知ないかもしれませんね。でも、「学問の神様」、天神様と言へば、皆さんもどこかで聞いたことがあるでせう。
さうです。日本には至る所に天神様を祀った神社がありますが(その数は全国で一万社とも言はれ、中でも一番有名ななのが九州にある太宰府天満宮です)、それは皆この菅原道真を御祭神として祀ってゐるのです。
菅原道真は代々学者の家系に生まれ、誰にも引けを取らないほどの、 豊かな漢学(中国の学問)の素養を持ってゐました。けれども道真の偉いところは、漢学の博識ぶりをひけらかすだけの詰まらない学者ではなかったところにあ ります。道真の作った漢詩は、唐の有名な詩人・白楽天にも勝ると言はれたほどでしたが、一面では、漢詩よりも劣ったものとして当時の知識人からは軽蔑され がちであった、和歌にも秀でてゐました。
このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山(たむけやま)紅葉の錦神のまにまに(『古今集』)
「幣(ぬさ)」といふのは、「幣(みてぐら)」とも言ひますが、神 様に捧げる白い布や紙のことです。これは宇多天皇が奈良に行幸された折に、お供してゐた道真が詠んだ歌です。意味は、「この度の御幸(みゆき=行幸)には 幣の用意もしてきませんでしたが、手向山の紅葉があまりに美しいので、幣の代わりに紅葉を手向けたい(神様に捧げたい)と思ひます。きっと神様もそんなお 気持ちでゐらっしゃることでせう」といふもので、この歌は百人一首にも採られてゐます。
このやうに道真は、日本的な情緒や美意識を大切にしたばかりでな く、日本の神々を尊んでゐた人でもありました。このことは、彼の編集した『類聚国史』といふ史書(様々な歴史書を分類別に編纂した書物)を見るとはっきり 解ります。中国の同類の史書では、最初に来るのは「天部」か「歳時部」といふ分類ですが、道真が編集した『類聚国史』は、最初に「神祇部」を置いてゐるの です。
「神祇部」といふのは、言ふまでもなく日本の神々のことを記載した 史書の分類で、この後に続くのは「帝王部」、即ち天皇のことを記載した史書の分類です。かうした分類一つ取ってみても、「道真がいかに日本の国の特殊性に 目覚めていたかを察することができる」と、歴史家の坂本太郎氏は指摘してゐます(坂本太郎『菅原道真』)。
「我が国は神国なり」とて、自分の代から毎朝の神々への御祈りはか かさないやうにしようと決意して、その通り実行なさった宇多天皇と、かうした道真の思想とは、何とよく合致してゐることでせう。天皇が道真を重く用い、道 真だけを頼りにされたといふのも、肯(うなず)けるはなしではありませんか。かうして宇多天皇のご信頼を一身に集めた道真は、「右大臣」といふ、一介の学 者としては破格の地位にまで上り詰めることになります。
道真の左遷と、天神信仰の起り
けれども、そのことは道真の周囲にゐた貴族、特に道真と肩を並べる やうにして一族で権勢を誇ってゐた藤原氏にとっては、面白いことではありませんでした。道真が右大臣になると同時に、左大臣の要職を占めたのは藤原時平で したが、まだ若い時平は、宇多天皇が譲位し、皇子の醍醐天皇が即位されると、当時まだ十三歳の少年天皇に取り入って、道真があなたの廃位を企んでいると、 言葉巧みに新しい天皇に吹き込んで、突然道真の官位を剥奪し、太宰権師(だざいごんのそつ=太宰府副長官)に左遷する、といふ暴挙に出ました。
驚いたのは宇多天皇です。何とか道真の左遷を阻止しようとしたので すが、後の祭りで、どうにもなりませんでした。それからの道真は悲惨を極めました。といふのは、道真には多くの子がありましたが、道真の後を継ぐと目され た男の子四人は全て別々の場所に流され、一家離散の憂き目にあったからです。昨日までは右大臣の要職を占め、天皇の信頼を一身に集めた道真でしたが、今日 は九州の大宰府に流され、失意のどん底に落とされたのです。それも無実の罪によって。道真は罪を赦されることもなく、健康を害し、二年後に太宰府の地で亡 くなりました。延喜三年(903)、道真五十九歳の時のことでした。
けれども、そんな境遇の下でも、道真は決して天皇をお怨み申し上げることはありませんでした。その澄み切った心境は、次の歌によく示されてゐます。
海ならずたたへる水のそこまでも清き心は月ぞてらさむ(『新古今集』)
人々の同情は、道真のもとに集まりました。藤原氏はその後も栄華を極めましたが、道真は死んで神となり、天神様として人々の信仰を一身に集めるやうになりました。今でも「学問の神様」として慕われてゐる道真といふ人は、かういふ人だったのです。
最後に付言すれば、寛平六年(894)、宇多天皇に建議して遣唐使 を停止したのも道真の功績でした。唐から学ぶべきものを学んだ後は、自国文化の発展に尽くす、宇多天皇と道真のさうした姿勢は、西洋からの学び尽くした感 のある今の日本にとっても、示唆するところが大きいのではないでせうか。