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小さな自然、その他いろいろ

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中国人は歴史は政治の侍女と考える

2012年03月02日 16時30分59秒 | 歴史

電脳筆写 『こころは超臨界』からの転載です。

中国と日本の歴史共同研究というのがあるようですが、この記事を見ると、まったくこの研究は意味を成さない気がします。歴史というものに対する意義が日中ではまったく違うのですから。

 

中国人は歴史は政治の侍女と考える――若狭和朋さん



「日本人が知ってはならない歴史」
【 若狭和朋、朱鳥社、p22 】

その人はどんな人かを問うことは、言語的存在としてどんな存在なのかを問うことである。中国人の歴史認識の機微をシンボライズする言葉に「政治掛師」とい う言葉(中国語)がある。政治は全ての学問に優先する、という中国人の考え方を表す言葉だが、歴史の研究は史実の研究よりも政治への奉仕が優先するわけだ から、中国人の歴史認識は政治的主張にほかならないのである。これが言語的存在としての中国人の特質であることを、日本人は「知ってはならない」とされて きている。だから、気づいてさえいない。

《 知性の再興、教育の再建がが日本の急務 》

日本人は歴史の研究とは、まずは史実の研究と考える。日本人はそのような言語的存在である。

中国人は歴史は政治の侍女と考える。「南京大虐殺」の史実は、実はどうでもよいのである。「南京大虐殺」は政治だから、日本人が小うるさく史実を詮索することには、別の政治をもって対処するだけである。

しかし、これは隠しておいて日本人のレベルで史実だと主張することだ。同調する劣情日本人もいることだし、中国侵略の罪の数々をあげつらっていけば、政治 とは知らない日本人は愚直な反応を繰り返す。「政治掛師」などは、日本人ごときは知ってはならない高等な知恵なのである。

ところで、世界的にも珍しい「弁偽学」という学問が中国には存在する。何が偽りでどれが正かを研究する学問である。

アメリカで歴史学といえば「地域研究」のニュアンスで扱われる傾向がある。歴史の「地域研究」でいうと、世界の歴史書のなかで最もウソが書き綴られているのが中国である。だから弁偽学なのである。『史記』をはじめ正史(官書)は全て偽史の書である。

なぜなら、前の王朝の歴史を編むのは次の王朝なのだから「政治掛師」の例外が存在できるわけがない。歴史は政治、というのは易姓革命の国の宿命である。前 の王朝の徳がかくして失われ、天命が革(あらたま)り革命となり今の王朝が天下を治めるにいたったと述べる正史(官書)が政治の書であるのは当然である。

(中略)

繰り返すが、中国の正史(官書)にバイアント(異書)はなく、官書は政治書である。その意味で、中国の歴史書は「政治掛師」の標本である。歴史をこのよう に考える中国人の文化と、日本人の歴史意識の文化落差を承知してかからないと、とんでもない被害が発生する可能性がある。小中華を任じる韓国・北朝鮮につ いても同じである。


 


フランスの侵略を受けたベトナム

2012年02月29日 19時54分13秒 | 歴史

かつて日本は美しかったからの転載です。

ベトナムも白人の植民地主義によって、苦労した国です。ベトナムはフランス領として、長く支配されて、愚民化政策を採られました。

 

 

ベトナムは1000年戦ってきた。

f:id:jjtaro_maru:20120226164830j:image

 

「われわれは一千年も戦ってきた。もし必要とあらば、さらに一千年戦ってみせる」

 

 これは帝国主義の時代、フランス支配に反抗する愛国的ベトナム人たちの自慢の声です。ベトナムは後のアメリカとの「ベトナム戦争」を戦い抜いており、この言葉がベトナムの歴史と伝統を表しているといえるでしょう。

 

 ベトナムは歴史のある国で3000年前あるいは4000年前にフン・ヴォン(雄王)が建国したと言われています。支那の支配を1000年受 け、独立し、支那の侵略を1000年撃退してきました。しかし、1858年8月31日、ダナン港に侵入してきたフランス軍艦の砲声によってベトナムの歴史 は暗転します。フランスの近代兵器による圧倒的な軍事力には全く歯が立たず、植民地支配を受けることになりました。

 

 それでもベトナムはゲリラ戦による抵抗を試み、ファン・ディン・フン(潘廷逢)、ホアン・ホア・タム(黄花探)、チュオン・コン・ディンといった指導者が奥地を根拠地として抵抗を試みましたが、圧倒的なフランスの軍事力に次第に追い詰められてほとんど活動をなさなくなっていきました。

 

 植民地支配を受けた民衆は過酷な圧政を受けました。

 

 <蘭印・英印・仏印> 井出諦一郎 昭和15年11月(GHQ焚書図書開封2より)

 

「農民は飢餓線上を彷徨しており、その生活費は1日2フラン15セントから1フラン20セントで、手から口への境涯だから何か事があれば直ぐに高利貸しの世話になり、生涯うだつは挙がらない。ジョセフ・F・ワーレン氏のマンダリンロードの旅行記によると『月夜ならば激昂の漏れようというあばら屋に住む百姓は2300万人中の90%』だということであり、その多数の農民達はフランス人4万6千名中1万1千名が兵隊、文官4千7百名、残りが産業関係者と女子供という少数者によってこんな有様に搾取されているのである」

 

 一部の上流ベトナム人はフランスへ留学することができました。しかし、フランスで自由、平等、人権を学んできて帰国したベトナム人青年は迫害されました。

 

 <インドシナSOS>アンドレ・ヴィオリス 昭和17年(GHQ焚書図書開封2より)

 

「彼は民主主義的思想を持って帰り、フランスとの協力をしようと考えていた。船から上がると、すべての『フランス帰り』と同じようにたちまち彼も迫害と屈辱の的になってしまった。彼の言うには新聞を創刊し、それによって、彼が私たちフランス人から教えられた原理に従い、人間としての権威にかくべからざる最小限度の自由を穏やかな調子で主張しはじめたのだった」

 

 新聞を創刊した青年は迫害を受けます。フランスの総督府は印刷所に命じて印刷しないようにしたり、郵便局には配送しないようにしたり、そして遂に青年は逮捕されました。フランスはベトナム人の目と耳と口を塞いでいたのです。後に、独立運動を展開するファン・ボイ・チャウが「フランス人はもっぱらわが国民を愚にしてその眼をふさがんとするの政策を用い、唖盲の病はさらに従前に倍したという有様」と語っており、徹底的に情報統制を行いました。大東亜戦争のときも「今次大戦を人種戦争とする、すべての記事」を検閲によって削除していました。

 

 ベトナム人は愚民化政策によって牙を抜かれていき、フランス人の忠実な下僕として生きることを強要されていきました。

 

 白人には勝てないのか?そんな時、アジアの小国、日本が日露戦争で白人の大国ロシアを打ち破るという出来事がおきます。有色人種が初めて白人に勝ったのです。有色人種は白人より劣ると教えられてきましたが、それはウソだとベトナム人は考えるようになりました。この日露戦争が転機となり、ベトナムの歴史の大転換が始まりました。



参考文献

 

 中公新書「物語 ヴェトナムの歴史」小倉貞男(著)

 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)

 ウェッジ「特務機関長 許斐氏利」牧久(著)

 日新報道「53年目の仏印戦線」佐野裕二(著)

添付画像

 1910のサイゴンの通り(PD)

 

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二・二六事件 汚名は見直されるべきではないか

2012年02月26日 16時37分41秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

さくらの花びらさんのブログで、226事件の真相を究明した記事が何度かに分けて掲載されたことがあり、私も転載しましたが、戦後この226事件はかなり間違った解釈と評価がなされ、真実と程遠い誤解がひろまっています。これには左翼学者の捏造もあり、226事件の青年将校が不当に貶められているところがあるようです。さくらの花びらさんが「学校で教えない歴史」シリーズで世間で広まっていることとは異なるかくされた事実をかなり掘り起こして、検証された記事を書かれた中に、この226はかなり力を入れて、回数を重ねられていました。それを読む限りでは、226事件の青年たちの愛国憂国の情は、心底皇国日本の行く末を思う行動であり、共産主義者では絶対にありません。今日は2・26事件の起きた日でもあり、この事件を、さくらの花びらさんの記事を転載して、考えてみたいと思います。

 

 
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                        二・二六事件慰霊像
 
2月26日を前に、この記事を書かせていただきます。なぐり書きのほどご容赦ください。
(尚、二・二六事件詳細は「学校で教えない歴史」で数回に亘って書いております)
・・・・
 
明治維新第一の功臣と言われた西郷南洲翁(隆盛)は、明治10年の役で自ら首領となって官軍に抗したため、“賊魁隆盛”とも言われたが、明治22211日にはその賊名を許されて正三位を贈られた。
この西南の役による南洲翁の立場は、二・二六事件の青年将校以上に重大であるが、その心事が君国を思うにあったことが認められ、生前の功労を思し召されて正三位の御沙汰となったのであろう。
 
昭和11226日払暁。
第一師団管下の青年将校約20名が、部下の兵士一千数百名を引率して叛乱を起こした。
降り積もる雪の中を実力行使して、当時の重臣らを襲撃して、国中を震撼させた事件、二・二六事件。
上官の意向を無視して兵を動かし、多くの重臣を襲撃したその罪は、もとより万死に当たる。
ただ、当時の上層部が、この事件の日本歴史上における重大性に気付かず、その頃の軍部内における「皇道派」と「統制派」との勢力争いも知らないがために、この事件を何の反省もせず、ただ一方的な憎しみを以て青年将校たちを極刑に処した。その誤る処置が、その後の日本の戦争突入となったことは事実である。
処刑された安田優少尉(25歳)は法廷で、「軍上層部が戦時統制経済によって独占利益をむさぼろうとする財閥に懐柔され思うがままに操られてしまうと、国家は意図的に引き起こされる戦争によって滅亡の危機に直面しかねない・・」 まさに国を憂う発言であった。
 
統 制派の代表で陸軍きっての切れ者の永田鉄山は北支の資源獲得などのため「支那を叩け」という考えであった。それに対して皇道派は「一度支那大陸に足を踏み 込むことは世界戦争を覚悟せねばならぬ、支那を安買いすることの危険である」ことを主張し、ソ連の防共こそ重視すべきとした。
これが表面化したのは19336月の満州事変後の日本の国防政策を決定する省部会議であった。
しかし、この会議内容は最高機密であったにもかかわらずどこから漏らされて、いつの間にか「皇道派はソ連と戦争を従っている」と言われ、対ソ恐怖論をいだく宮中の重臣や財界、政界が皇道派を自然に危険視するようになっていったのだ。しかし、事実は全くの逆であった。
 
永田鉄山の支那と戦争突入すべきと財閥との癒着を危惧した相沢三郎中佐は、ついに永田鉄山を殺害し天誅を加えた。二・二六事件の前の年の8月であった。相沢を慕った青年将校たちは大きな影響を受けた。相沢は今も処刑された青年将校たちと共に賢崇寺にいるのはそのためである。
 
我が肇国(国がはじまって)以来の歴史を学び、軍人勅諭、教育勅語、帝国憲法によって日本の国体が万邦無比であると教えられた皇道派青年将校たちが、その国体を護ろうと起こした叛乱であった。
しかし、この事件によって皇道派が追い出されると、統制派は事件直後からこの事件関係の報道・言論を一切禁止し、厳重な取り締まりが行われ、事件の処理に当たった特別軍法会議は非公開で弁護もなし、しかも一審だけの暗黒裁判を行った。事件の真相は軍発表だけで、この報道管制は厳重に続けられたまま戦争に突入していった。従って事件について国民が知らされたのは軍発表以外何もなかった。
戦後になって埋没していた資料が発表された。しかしまだまだ謎も多いのだが、国民はもはやこの事件のことは学校でもきちんと教えられず、五・一五事件との違いすら分からず、何にことやらわからないのが実態であろう。
 
昭和41年、「華族―昭和百年の側面史」で事件当時に内大臣秘書官の木戸幸一はこう言っている。
「二・二六事件が起こることを知っていた。・・・。僕は1カ月も前から情報をキャッチしていましたよ。今度は軍はえらいことをやる。千人くらいの人間が動くという情報なんです」
情報を知っていたならばなぜ叛乱を阻止しなかったのか。
 
陛下に近い木戸幸一は事件後も陛下に青年将校を早く処分するように上奏していたようだが、この時の陛下の御判断に少なからず影響したのは間違いないでありましょう。
事件後、陛下は「反逆の徒を徹底的に鎮圧せよ」と何度も仰せられていた。
この木戸は大東亜戦争時も陛下のそばにいて、偏った情報を与えていた。この時、木戸と同居していたのは木戸の身内である都留重人というアメリカ共産党員であり、コミンテルンの手先であった・・・。
 
国家を敗戦に導いた統制派の失態とともに、青年将校たちの一片の志を顧みて、その汚名は見直されるべきではないか。
 
 
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井上毅 ~ 有徳国家をめざして(下)

2012年02月20日 14時14分37秒 | 歴史

 国際は日本人養成講座からの転載です。

   前回(上)の続きです。戦後GHQは、日本の要人全てを公職追放にしてその間の国会において、形としては国会決議の形をとって、実質は、自分たちの作った憲法と教育基本法を押し付けました。

そして、1948年6月1日、衆議院では「教育勅語排除に関する決議」が、参議院では「教育勅語の失効確認に関する決議」が、日本人の発議の形をとって、行われました。こうして米国の圧力によって、教育勅語は廃止されました。

井上毅が身を削るようにして研究し考えて、心魂込めて作り上げた教育勅語は、まるで侵略戦争の元凶の一つであるかのように封建的などという言葉によって貶められて封印されてしまいました。

しかし今回の東日本大震災で、身を捨てて公に奉じた人々は、まさに教育勅語の精神そのもののようであったことを、われわれは深く考えて、何が正しいのかを素直な心で見る必要があると思います。

 


                
 井上毅が発見した我が国の国家成立の原理は、また教育の淵源をなすものであった。

井上毅

■1.「しらす」と「うしはく」

 井上毅は、これから起草する憲法の根幹とすべき「民族精神・国民精神」を求めて、徹底的な国史古典研究を続けたが、その過程である重要な発見をした。

 それは古事記において、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が出雲の支配者である大国主神(オオクニヌシノカミ)に対して、国譲りの交渉をする部分である。

「大国主神が『うしはける』この地」は、「天照大御神の御子が本来ならば『しらす』国であるから、この国を譲るように」とある。
井上はこの「うしはく」と「しらす」がどういう違いを持っているのか、調べてみた。

 すると、天照大御神や歴代天皇に関わるところでは、すべて「治める」という意味で「しらす」が使われ、大国主神や一般の豪族たちの場合は、「うしはく」が使われていて、厳密な区別がなされていることが分かった。


■2.「しらす」とは、国民の喜び悲しみを「知る」こと

 井上はここに日本国家の根本原理があると確信した。「しらす」とは「知る」を語源としており、民の心、その喜びや悲しみ、願いを知ることである。そして、それは民の安寧を祈る心につながる。

 たとえば、今回の大震災に関しても、天皇皇后両陛下は何度も被災地を訪れ、避難所で膝をつきあわせて、被災者たちの声を聞かれた。被災者たちは国家を象徴する天皇に自分たちの苦難を聞いてもらうことで、自分たちは孤立しているのではない、国家国民が心配してくれているのだ、と勇気づけられる。

 またそこから明らかになった被災者たちの苦しみを少しでも軽減しようと、自衛隊や警察、ボランティアなどの人々が救援活動を展開する。これが「知らす」による国家統治の原風景であろう。

 歴代天皇は、天照大御神から授けられた三種の神器を受け継がれている。その中で最も大切な鏡は、曇りなき無私の心で民の心を映し出し、知ろしめすという姿勢の象徴である。

 これに対し、「うしは(領)く」とは、土地や人民を自分の財産として領有し、権力を振るうことだ。北朝鮮で数百万人の人民を餓死させながらも、金正日が贅沢の限りを尽くし、同時に核開発を進めて自らの権力を誇示していたのは、「領く」の一例である。


■3.国家成立の原理

 井上は、こう説く。

__________
 支那(中国)、ヨーロッパでは一人の豪傑がおって、多くの土地を占領し、一つの政府を立てて支配し、その征服の結果をもって国家の釈義(意味)となすべきも、御国(日本国)の天日嗣(あまつひつぎ、天皇)の大御業(おおみわざ、なさってこられたこと)の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめすという意義より成り立ちたるものなり
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
__________
 かかれば御国(日本国)の国家成立の原理は、君民の約束にあらずして、一つの君徳なり。国家の始めは君徳に基づくという一句は、日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 たとえば英国では国王の横暴から臣民の権利を守るために不文憲法が発達したが、これなどは「君民の約束」の一例だろう。

 これに対して、日本国は民の喜び悲しみを天皇が知り、その安寧を祈る、という「君徳」が、国家の成立原理になっていると、井上は確信したのである。


■4.大日本帝国憲法第一条

 この発見に基づいて、井上が大日本国憲法草案の第一条として、「日本帝国ハ萬世一系ノ天皇ノ治ラス所ナリ」とした。

 しかし、この近代憲法を世界に知らしめようとした伊藤博文から、「これでは法律用語としていかがなものか。外国からも誤解を招く」との異論が出て、最終的には、「日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之(こ)レヲ統治ス」と改められた。

 しかし、井上は伊藤博文の名で自ら執筆した憲法の解説書『憲法義解』の中で、この「統治ス」は「しらす」の意味であるとはっきり書いている。

 この第一条から、明治憲法は天皇が国家の主権を握った専制憲法である、というような解釈をする向きもあるが、それが誤解であることは、この点からも明らかである。

 逆に天皇が国民の思いを広く知るためには、むしろ専制主義であってはならない、というのが井上の考えでもあった。たとえば、憲法第5条の「天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行う」は、言い換えれば、天皇が議会の協賛なしに勝手に法律を作ることを禁じている。

 この憲法が発表されると、欧米での識者からは高い評価が寄せられた。伊藤博文が師事したウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授は、「日本の憲法はヨーロッパの憲法と比べても大変出来がよい」と評価した。


■5.信教の自由、思想の自由との両立

 前編で述べたように、大日本帝国憲法が発布された明治22(1889)年の翌年、急速な文明開化による教育の混迷に危機感を抱いた地方官会議(県知事会議)で「徳育涵養の義につき建議」がなされた。

 同じ危機感を抱かれていた明治天皇からも「徳育に関する箴言(しんげん)」を編纂して子供たちに学ばせよう、という提案があった。

 これを受け文部大臣・芳川顕正(よしかわ・あきまさ)が、ベストセラー『西国立志編』を著した東大教授・中村正直(まさなお)に、草案の作成の委嘱をしたのだが、できあがったのはきわめてキリスト教色の強いものだった。「吾(わが)心ハ神ノ舎(やどり)スル所ニシテ」云々とまるで牧師が説教しているかのような文言もある。

 この案をチェックして断固拒絶したのが、当時、法制局長官をしていた井上毅だった。首相の山県有朋は「それならどういう案なら良いのか、示してくれ」と井上に、草案の起草を求めた。

 大任を引き受けた井上は、まず近代国家の枠組みの中で、このような文書が満たすべき条件を考えた。

 まず信教の自由を守るためにも、「天」とか「神」といった特定の宗教の用語を避けなければならない。キリスト教、仏教、儒教、神道、いずれを信奉する人々にも、等しく受け入れられるようなものではならない。

 同様に、国民の良心の自由、思想の自由を守るためにも、君主が国民の信ずべきことを権力をもって強いるようなことがあってはならない。そのためには法的文書ではなく、君主が自らの考えを明らかにした「著作」という形をとることが望ましい。

 さらに、天皇のお言葉として、論争を呼ぶような哲学的議論や、「政治上の臭み」、「あれをするな、これをしてはいけない」というようなせせこましい説教を避けねばならない、と考えた。


■6.「天皇のお言葉」を綴る無私の心

 この考えのもとで、井上は最初の文案をまとめた。苦心に苦心を重ねただけあって、すでに教育勅語の最終的な正文にかなり近い内容になっていた。

 井上はこの草案を、「明治天皇の師」元田永孚(もとだ・ながさね)に見せて、アドバイスを求めた。元田も、中村正直の案には大いに不満を抱いており、すでに自分なりの草稿を作成していたが、井上の案を見て、自らの草稿を引っ込めてしまった。

元田永孚

 井上の草案から出発した方が良いと考えたようだ。自らの名誉などはまったく頓着せず、ただ国家のためにベストの道を選ぶ、という無私の心が窺われる。

 ここから二人が協力して文案修正を始める。その過程では、元田が儒教的な表現を入れようと提案したが、井上がそれを断固拒否したこともあった。同郷の大先輩であり、当代一流の漢学者の提案であっても、万世に残る天皇のお言葉としてふさわしくないものは受け入れられない、との、これまた無私の心からであった。

 首相の山県からは、国家の独立のために軍備が必要であり、「一朝事あれば」というようなことを一言入れて貰えないか、という提案もなされたが、これも井上は「政治上の臭み」と考えたのか、拒絶している。

 最終段階では当然、明治天皇にも見ていただいた。元田が「国憲ヲ重ジ、国法ニ遵(したが)ヒ」の一節を、天皇の統治大権を制限するので好ましくないとしたが、天皇は「それは必要だから残すように」と言われた。近代立憲国家に必要な国民の心構えと考えられたのであろう。


■7.「私はあなた方国民とともに」

 このような過程を経て、ついに文案が完成し、明治23(1890)年10月30日、「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)として発表された。

 国民への押しつけにならないよう「君主の著作」として、他の勅語とは異なり、明治天皇の署名のみで、国務大臣の副署はなされなかった。

 そして冒頭から「朕(ちん)思フニ(私が思うに)」と、法令ではなく、明治天皇ご自身の考えであることが明記されている。さらに最後は、次のようなご自身の切なる願いとして結ばれている。

__________
 朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ咸(みな)其(その)?ヲ一ニセンコトヲ庶(こい)幾(ねが)フ」
(私はあなた方国民とともに、この教えを常に心に抱き、皆でともにこの徳を抱いていくことを切に願う)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 戦後、占領軍からの指示で、この教育勅語の「失効」を確認する国会決議がなされているが、もともと明治天皇の「個人的著作」として発表されたものであるから、当然、法的拘束力もなく、したがって国会で失効を決議すること自体が、意味のない所為であった。


■8.美しい国柄

 冒頭で、井上の「知らす」と「領(うしは)く」の違いに関する発見を述べたが、井上は教育勅語においても、歴代天皇の国民の苦しみ悲しみを「知らす」という徳が、我が国の道徳の源泉である、と冒頭から述べている。

__________
朕惟フニ 我カ皇祖皇宗 國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ 徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ 我カ臣民 克(よ)ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ 世々 厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ 此レ 我カ國體ノ精華ニシテ 教育ノ淵源 亦 實ニ此ニ存ス

(私が思うには、皇室の祖先は宏遠な理想を抱いて国を始め、国民の幸せを願い祈られる徳を深く厚く立ててきました。それを受けて国民も国に真心を尽くし、先祖や親に孝心を抱いて、国民すべてが心を一つにして、代々美しい国柄を作り上げてきました。教育の源も実にここにあります。)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 今回の大震災に例えて言えば、両陛下がひたすらに被災者を案ずる大御心が「徳」であり、その大御心を我が心として自衛隊員などが被災者を助け、また地域、家族で助けあう姿が「忠」や「孝」である。そしてこの美しい国柄が世界を感嘆させた。

 教育の「淵源」もこういう美風にある、というのが、教育勅語冒頭の主張であった。


■9.「偉大な勅語に雄弁に示された精神」

 明治38(1905)年の日露戦争の勝利は、アジアの一小国が白人の大国を近代戦争で打ち破った戦いとして、世界を驚嘆させた。

 英国は、日本の発展の原動力を、教育勅語をもとにした道徳教育の力と捉えて、講演者の派遣を日本に要請してきた。これに応じて、元東京帝国大学総長・菊池大麓(だいろく)が、教育勅語を英訳し、明治40(1907)年、英国各地を講演して回った。

 その結果、たとえば全英教員組合の機関紙は、「この愛国心が強く、勇敢無比な国民は、教育上の進化を続け、結果としてその偉大な勅語に雄弁に示された精神をもって、国民的伸展の歴程を積み重ねていくであろう」と絶賛した。

 大震災で被災者たちの助けあう姿が世界を感動させたように、人々が互いを思いやって、共同体のために尽くす姿は、洋の東西、時代の新旧を問わず、人の胸を打つ。人間が生まれながらに持つ公徳心、道徳心に響くものがあるからだろう。

「之ヲ古今(ここん)ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラズ」(これは昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理である)と勅語にある通りである。

 ただ、この道理が悠久の昔から建国の原理となっていたという史上稀に見る幸福に、我々日本国民は気づき、感謝しなければならない。

 井上は教育勅語煥発のわずか5年後の明治28(1895)年、文部大臣の任期半ばで亡くなった。まだ51歳だった。もともと体が弱かったのが、精魂を込めた仕事で心身を使い果たしたのだろう。

 死後、皮下注射をした医者は「よくも、衰弱したるかな。殆(ほとん)ど一滴の血すら残さず」と述べたという。

 

 


宇多天皇と菅原道真

2012年02月20日 04時39分11秒 | 歴史

みどり松のブログから転載しました。菅原道真という人が学問の神様である天神様という話は聞いていましたが、今ひとつ詳しいことは知らなかったのですが、この様な立派な人であったのですね。

 

宇多天皇と菅原道真

藤岡寛次氏の『青少年のための誇りある日本の歴史』から、引用転載しました。


 

第五十九代宇多天皇の御代は、後世「寛平の治」と称へられています。また、『古今集』の成立した第六十代醍醐天皇(宇多天皇の皇子)の御代は、第六十二代村上天皇(醍醐天皇の皇子)の御代と共に、後世「延喜・天暦の治」として仰がれるやうになりました。


例へば鎌倉時代から南北朝時代にかけて、後宇多天皇(第九十一代)・後醍醐天皇(第九十六代)・後村上天皇(第九十七代)が次々に即位されてゐますが、みなさんはかうしたお名前の由来を知ってゐますか。すべて「後」という字が最初についてゐるでせう。


これは、平安時代の上記の三人の天皇にあやかって、ご自分もさういふ立派な天皇になりたいといふ意味で、在世中もしくはご遺言によってつけられたものなのです。


それでは何故、この御三方は後世にそんなに大きな影響を与へたのでせうか。今回はその中でも宇多天皇を中心に見てまいりませう。

宇多天皇

宇多天皇と菅原道真


平安時代初期に全盛を誇った唐風文化が、中期になると次第に国風に変わっていきましたが、宇多天皇はそのことを象徴するやうなお方でした。
この天皇には膨大な御日記が残されており、日々何を考へておられたかが、今の私たちにもわかるのですが、仁和四年(888)十月十九日の御日記には次のやうに書かれてゐるのです。


「我が国は神国なり、因って毎朝四方大中小天神地祇を敬拝す。敬拝のこと、今度より始めて、一日も怠ることなし」(原漢文)


日記はすべて一種の漢文(白文)で綴られてゐますが、その中身はと いふと全く唐風ではなく、日本は「神国」であるから、これから私は毎朝天津神・国津神を礼拝しよう、このことは私の代から始めるが、決して一日も怠ること のないやうにしようといふ、崇高な御決意が記されてゐます。


宇多天皇がこの日記を書かれたのは、即位後間もない頃のことで、この国をこれから背負って立たんとする青年天皇(当時御年二十二歳)の神々しいまでの御自覚が、千年以上の時を隔てた現代の私たちにも、ひしひしと伝わってまいりますね。


事実これ以後、(いつの頃からかは、はっきりしませんが)皇居の清涼殿には「石灰の壇」といふ拝所が設けられ、歴代天皇は毎朝そこに正座して、この国の平安を神々に祈られるのが、大切な日々のお勤めの一つになってゆくのです。


そしてこの宇多天皇が最も信頼した臣下が、誰あろう、菅原道真でありました。


菅原道真


菅原道真といっても、今の若い人は、御存知ないかもしれませんね。でも、「学問の神様」、天神様と言へば、皆さんもどこかで聞いたことがあるでせう。


さうです。日本には至る所に天神様を祀った神社がありますが(その数は全国で一万社とも言はれ、中でも一番有名ななのが九州にある太宰府天満宮です)、それは皆この菅原道真を御祭神として祀ってゐるのです。


菅原道真は代々学者の家系に生まれ、誰にも引けを取らないほどの、 豊かな漢学(中国の学問)の素養を持ってゐました。けれども道真の偉いところは、漢学の博識ぶりをひけらかすだけの詰まらない学者ではなかったところにあ ります。道真の作った漢詩は、唐の有名な詩人・白楽天にも勝ると言はれたほどでしたが、一面では、漢詩よりも劣ったものとして当時の知識人からは軽蔑され がちであった、和歌にも秀でてゐました。


このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山(たむけやま)紅葉の錦神のまにまに(『古今集』)


「幣(ぬさ)」といふのは、「幣(みてぐら)」とも言ひますが、神 様に捧げる白い布や紙のことです。これは宇多天皇が奈良に行幸された折に、お供してゐた道真が詠んだ歌です。意味は、「この度の御幸(みゆき=行幸)には 幣の用意もしてきませんでしたが、手向山の紅葉があまりに美しいので、幣の代わりに紅葉を手向けたい(神様に捧げたい)と思ひます。きっと神様もそんなお 気持ちでゐらっしゃることでせう」といふもので、この歌は百人一首にも採られてゐます。


このやうに道真は、日本的な情緒や美意識を大切にしたばかりでな く、日本の神々を尊んでゐた人でもありました。このことは、彼の編集した『類聚国史』といふ史書(様々な歴史書を分類別に編纂した書物)を見るとはっきり 解ります。中国の同類の史書では、最初に来るのは「天部」か「歳時部」といふ分類ですが、道真が編集した『類聚国史』は、最初に「神祇部」を置いてゐるの です。


「神祇部」といふのは、言ふまでもなく日本の神々のことを記載した 史書の分類で、この後に続くのは「帝王部」、即ち天皇のことを記載した史書の分類です。かうした分類一つ取ってみても、「道真がいかに日本の国の特殊性に 目覚めていたかを察することができる」と、歴史家の坂本太郎氏は指摘してゐます(坂本太郎『菅原道真』)。


「我が国は神国なり」とて、自分の代から毎朝の神々への御祈りはか かさないやうにしようと決意して、その通り実行なさった宇多天皇と、かうした道真の思想とは、何とよく合致してゐることでせう。天皇が道真を重く用い、道 真だけを頼りにされたといふのも、肯(うなず)けるはなしではありませんか。かうして宇多天皇のご信頼を一身に集めた道真は、「右大臣」といふ、一介の学 者としては破格の地位にまで上り詰めることになります。


 

道真の左遷と、天神信仰の起り


けれども、そのことは道真の周囲にゐた貴族、特に道真と肩を並べる やうにして一族で権勢を誇ってゐた藤原氏にとっては、面白いことではありませんでした。道真が右大臣になると同時に、左大臣の要職を占めたのは藤原時平で したが、まだ若い時平は、宇多天皇が譲位し、皇子の醍醐天皇が即位されると、当時まだ十三歳の少年天皇に取り入って、道真があなたの廃位を企んでいると、 言葉巧みに新しい天皇に吹き込んで、突然道真の官位を剥奪し、太宰権師(だざいごんのそつ=太宰府副長官)に左遷する、といふ暴挙に出ました。


驚いたのは宇多天皇です。何とか道真の左遷を阻止しようとしたので すが、後の祭りで、どうにもなりませんでした。それからの道真は悲惨を極めました。といふのは、道真には多くの子がありましたが、道真の後を継ぐと目され た男の子四人は全て別々の場所に流され、一家離散の憂き目にあったからです。昨日までは右大臣の要職を占め、天皇の信頼を一身に集めた道真でしたが、今日 は九州の大宰府に流され、失意のどん底に落とされたのです。それも無実の罪によって。道真は罪を赦されることもなく、健康を害し、二年後に太宰府の地で亡 くなりました。延喜三年(903)、道真五十九歳の時のことでした。


けれども、そんな境遇の下でも、道真は決して天皇をお怨み申し上げることはありませんでした。その澄み切った心境は、次の歌によく示されてゐます。


海ならずたたへる水のそこまでも清き心は月ぞてらさむ(『新古今集』)


人々の同情は、道真のもとに集まりました。藤原氏はその後も栄華を極めましたが、道真は死んで神となり、天神様として人々の信仰を一身に集めるやうになりました。今でも「学問の神様」として慕われてゐる道真といふ人は、かういふ人だったのです。


最後に付言すれば、寛平六年(894)、宇多天皇に建議して遣唐使 を停止したのも道真の功績でした。唐から学ぶべきものを学んだ後は、自国文化の発展に尽くす、宇多天皇と道真のさうした姿勢は、西洋からの学び尽くした感 のある今の日本にとっても、示唆するところが大きいのではないでせうか。