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小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

姫路藩家老 河合道臣  民は国の本、人材は国の宝

2012年02月05日 17時05分24秒 | 歴史

姫路城の美しさを誇る姫路藩は、幕末の頃には、譜代大名の酒井家が治めていました。江戸末期には、多くの藩が負債を抱えていましたが、姫路藩も収入の四倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えており、日常生活に支障を来すほどの困窮ぶりだったといいます。

この債務に悩んだ藩主忠以(ただざね)は藩政改革に、河合道臣を家老として登用しました。

河合寸翁(道臣の号)胸像 

河合は、質素倹約礼を布くかたわら、村々の庄屋や豪農のうち志ある者から米や麦を提供してもらい、凶作や水害、災害による飢饉に備えて、固寧倉(義倉)を設け、平素においては貯蔵された米麦を安い利息で貧農に貸し付け、生活の基礎を確保することでその安定を図るという画期的な政策を打ち出しました。

固寧倉という命名は、「民は惟れ邦(国)の本、本固ければ邦寧し。」由来は『書経』にあって、民が富めば国も富む、そんな河合一流の考えを端的に現した命名でした。

更に朝鮮人参やサトウキビなどの高付加価値な商品作物も栽培させることで、藩の収入増が図られました。

そして何よりも河合の大きな功績とされるものが、特産品の流通改革です。河合は、加古川流域で早くから栽培されていた綿花を素材とした姫路木綿が、極めて良質であることに目を付けていました。布を織る技術に優れ、薄地で柔らか、しかも白さが目立って特筆に値するものでしたが、問題は流通にありました。


 大坂の問屋が介在することで、仕入れ時の買い叩きや、かなりの中間利益が吸い取られていることを知った河合は、大坂市場に見切りをつけ、藩が独占して江戸直送。江戸表で売り捌く専売権獲得を思いつきました。
これは先例が無かったため事前に入念な市場調査をし、幕府役人や江戸の問屋と折衝を重ねた上、文政6年(1823年)から江戸での木綿専売に成功します。色が白く薄地で柔らかい姫路木綿は「姫玉」「玉川晒」として、江戸で好評を博しました。


また、木綿と同様に塩・皮革・竜山石・鉄製品なども専売としました。これによって藩は莫大な利益を得、道臣は27年かけて藩の負債完済を成し遂げました。

 

河合は、たいへん学問好きでその素養も深かったが、人間味もありました。家老とは、今の会社で言えば総務部長のような役職で人事と予算を扱います。かれは酒井家の武士たちに、

「常に藩民の模範となるように心がけろ。どういうことをして自分を役立てるかは、それぞれよく考えろ」

と言っておりました。つまり、

「姫路藩酒井家の藩士はこうあらねばならぬ」

というやかましい規範はあまり示さなかったのです。そのためにこれを誤解して、藩士の中にはそれぞれ好き勝手に生きればいいのだ、と考える者もいたのでした。多少、風紀が乱れてきた時、各セクションの責任者は河合を恨みました。

「ご家老が、規範を示さず各人勝手に生きろなどとおっしゃるから、部下がいうことを聞かなくて困る」

とぶつぶつ文句を言ったのです。このことが耳に入ると河合は各セクションに触れを出しました。。「それぞれの職場で、手に余る者は私のところへ寄越せ」。

責任者たちはよろこんで手に負えない、いわゆる”問題児”を河合のところへ送りこみました。送りこまれた連中は、河合のいうこともききません。それは、職場から追い出された屈辱感もあるし、また河合の下に入ったことで、余計目に立つからでした。城内でも、そういう連中が通るとみんな指さして嘲笑うのです。

「あいつらは、問題児なのでついに河合様の部下にさせられてしまった」

河合に預けられた問題児に、甲、乙、丙の三人がいました。河合はこの三人を集めました。

「お前たちは、今までの職場で問題児だといわれたが、いったいなにをしたのだ?」

「別に何もしません。ただ、好きなことをやらせてくれないので、上司に文句を言っただけです」

「おまえの好きなことというのはなんだ?」甲に聞きました。

「姫路の町の歴史を調べることです」と答えました。

「おまえは?」と言われて乙は答えました。

「藩がやっていることが、古くからある法規にかなっているかどうか、を調べるのが好きです」

「おまえは?」。丙に聞きました。丙はこう答えました。

「芸能が好きです」。

河合は考えました。(それぞれ特技をもっている。その特技を仕事に生かせば、いま職場でツマハジキされているこの連中も、改めてやる気を起こすだろう)。

河合は昔から姫路城の美しさに誇りを持っていました。

「城は藩の顔だ。いつまでもこの美しさを保ちたい」と希っています。しかし、城の美しさは城だけでは保てません。城下町の協力がいります。それには住民たちがその気にならなければダメです。ところが住民たちは、城の美しさにもたれかかって、ともすれば街の清掃や道路の整備の手を抜きます。河合は、

(三人に城下町を美しくする仕事をさせよう)と思い立ちました。甲には町役人たちに城や城下町の歴史を認識させ、住民へのPRをおこなわせました。乙には町役人が黙認している住民たちの、違法行為を摘発させ、これを改めさせました。町の空気がピシッと改まりました。しかしきびしいだけではダメです。町には他国の旅行者も往来します。丙には宿や酒亭での芸能指導を命じました。三人の努力は次第に実り、姫路の城下町は清潔で楽しい町に変わっていきました。

「河合様はさすがだ。手の付けられない問題児を、またうまくお使いになった」とみんな感心しました。

河合道臣は、晩年には、寸翁(すんのう)と号しました。そのため庶民からは寸翁さんと親しまれました。

姫路神社境内にある、寸翁神社

河合は、文政4年(1821)、その功績によって奥山の阿保屋敷を与えられました。この地に河合は、私財を投じて、人材育成のための学校を建てたのです。論語の『知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し』に因んで、仁寿山と名付けました。この仁寿山校に、河合は頼山陽や森田節斎、猪飼敬所などを招いて漢学・国学・医学を伝授させました。開学の精神はやがて自由に天下国家を論じる気風を生むようになり、このことによって、やがて姫路藩から、勤皇の志士が生まれていくきっかけとなりました。


参考

河合道臣 - Wikipedia

歴史の風景-播磨伝説異聞-312寸翁が馳せた夢 仁寿山校跡

問題児にも活用法がある  河合道臣   童門冬二


時代を先取りした気骨の洋学者 渡辺崋山

2012年02月02日 17時35分26秒 | 歴史

蛮社の獄で有名な渡辺崋山は、非常に才能のあった人のようです。

まずは画人として独自の画風を確立した一流の画家であり、写実的な肖像画は当時もかなり人気があり、多くの人物を書いています。『一掃百態』という風俗画集では、江戸の人々の風俗や職業の生態を描き、、大名行列や露天の小商人の動作などを軽妙なタッチで活写しています。

一流の画家としてだけでなく、後には田原藩の家老に抜擢されて、さまざまなトラブルの交渉と解決、藩政改革、国防理論と、手腕をふるいました。

 

渡辺崋山像。崋山の弟子、椿椿山によって崋山の死後12年後の嘉永6年(1853年)に描かれたもの。田原市博物館蔵。重要文化財。

 

渡辺崋山は、田原藩の江戸詰め勤務の渡辺定通の長男として生まれます。渡辺家は田原藩の上士の家柄で、代々百石の禄をもらっていましたが、父定通は養子であったため12人扶持27石に削られ、更に藩の財政難による減俸で、実収入はわずか12石足らずというありまさでした。しかも父は病気がちのため、その医薬に多くの費用がかかり、一家は極貧の生活となりました。日々の食事にも事欠くこともあり、弟妹は次々に奉公に出され、華山は年少の頃から、家計を助けるために画業を志し、絵を学び、初午灯篭や凧の絵を描く内職などをしながら、勉強に励みます。

華山の絵はどんどん上達し、のちに谷文晁(たにぶんちょう)に入門してからは、絵の才能は大きく花開くこととなり、20代半ばには画家として著名となりました。更に学問にも熱心で、儒学もよく学び、18歳のときには昌平坂学問所に通いました。

一家の家禄も父の出世と共に回復してゆき、文政8年(1825)三二歳で家督を継いだ時には、80石となっていました。その年には、藩の取次役にも就任しました。

ところが、翌年に、藩主三宅康明が28歳の若さで亡くなります。藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった姫路藩から、持参金付きで養子を迎えました。華山はこれに反対する運動を起こしましたが、入れられませんでした。

華山は前藩主の血筋が絶えることを惜しみ、のちに、藩主となった養子・康直の娘と前藩主の異母弟友信の男子を結婚させて次期藩主とするように姫路藩に働きかけ、交渉を成立させています。これらの華山の動きのお陰で、友信は前藩主としての格式を与えられ、その後も華山との親交が続き、華山が蘭学書を手に入れるための資金などを提供したり、華山の死後の明治14年(1881)に『崋山先生略伝補』として崋山の伝記を書き残しています。

天保元年(1930)藩主康直が幕府より日光祭礼奉行に任じられたため、藩主の見栄を張るなどの無駄な金遣いで、藩財政はさらに悪化し、藩政改革の必要に迫られ、康直は天保3年(1832)、崋山を年寄役に任じて改革を行なうことにしました。

華山はまず、田原藩の災難の解決を図りました。この頃、田原藩では領民が難破した他国船の積荷を奪った事件や、他国の商人が巧みに介入して藩領で新田開発を企てるなど、 様々な問題をかかえていました。崋山はこれらを交渉をもって解決したのでした。

また2人扶持の支給や格高分合制という人材登用制度などを新 たに取り入れました。特にこの人材登用制は、有能な人材であれば家格にかかわらず重く登用するという先進的なものでした。

また、崋山は農政学者・大蔵永常を招聘して、当時諸藩で有力な財源となりつつあった商品作物として、甘藷(サツマイモ)、櫨、椿などの農産物の育成を奨励しました。さらに鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながりました。

天保7年(1836)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや、『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けています。

 

華山が更に必要と強く感じたのが、国防という問題でした。

田原藩は遠州灘につき出た渥美半島にあり、天保三年に海防を重視した華山は海防掛かりを兼務しました。日本は鎖国が続き、幕府をはじめ人々は太平の夢をむさぼって、”井の中の蛙”になっていました。ところがロシアの日本探検船団がしきりに日本本土をねらっていたのです。

華山は海防を担当したことで、オランダの学問を勉強し、シーボルト門下の高野長英、小関三英といった蘭学者と交流しました。

華山の蘭学研究は世界の地理、風俗、歴史、兵術など多方面にわたる本格的なものでした。兵書を取り寄せ西洋の火器を中核とした軍事組織を日本に移植しようとしたのです。

オランダ商館長ニーマンからいろいろな知識を学んでいます。鎖国以来二百年も平和が続いている国など、世界には日本以外にどこにもないこと。ロシアは支那領の満州や蝦夷諸島(北海道、クナシリ)をねらっていること。大名や旗本の供廻りなどが人と金を無駄に使って人材の育成を妨げていること。そういうことに幕府の為政者が無知であることを心のそこから憂えました。

また華山は、西洋文明の進歩の基本要因として「物理の学」をあげ、日本には科学的精神が欠如していることを指摘しました。こうして華山の学識や知見を慕っていろいろな人が集まって来ました。長英らのほか、江川英竜、川路聖謨(としあきら)、遠藤勝助、立原杏所と言った洋学者や知識人たちでした。

『鴃舌小記』『慎機論』『西洋事情書』『外国事情書』といった華山の著書や草稿は、日本の危機を訴えようとしたものです。鴃舌というのはモズの声、”野蛮人のことば”と言った意味です。そのなかで華山は「世界の五大州のなかでアジアを除く諸州はことごとくヨーロッパ人の所有に帰した」と書き、そのアジアの中でも独立できているのは、ペルシャと日本のみ、「されば誠に心細きことに御座候」。しかも道に置かれた肉のようにトラやオオカミがねらっていると警告したのでした。

こうした華山の研究や忠告に対し、憎しみをもって不当な敵意をいだいたのが、幕府の目付鳥居耀蔵です。この人物は、政敵や論敵に遺恨をいだき、讒言で陥れることが多い人物でした。また、鳥居の実父が大学頭を務めた儒者の林述斎であったことから、儒学以外の学問を排斥する傾向が強く、華山が昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受けた人間であるにもかかわらず、蘭学研究をしていることに、裏切り者という意識を強くもち憎しみを覚えていたという話もあります。

鳥居は手下を使って華山の身辺を探索し、風説をねたに”事件”をでっち上げました。

一、華山は『鴃舌小記』を表して蘭人の幕府批判を紹介し、高野長英、小関三英らと徒党を組んで外国事情を詮索して、当今のまつりごとを中傷した。

一、無人島渡航を計画し、漂流にかこつけてあわよくばアメリカへ渡らんとした。

一、長英は『夢物語』と題して日本と外国との政治人情の善悪を評する著作をあらわした。

これは要するに、洋楽嫌いの鳥居が、華山や長英をおとしいれようとして弾圧した事件でした。鳥居は彼らを一斉検挙しました。世人が鳥居耀蔵のことを鳥居妖怪(耀甲斐)と呼んだほどのこすからい陰謀家だったのです。

この事件を歴史では「蛮社の獄」と呼んでいます。長英たちは、自らを蛮学社中」と称していたからです。蛮学とは洋学、オランダの学問のことです。

長英はいったん身を隠したのち自首し、三英は自害しました。華山は北町奉行所で取り調べを受け、ひとまずは釈明が受け入れられました。奉行所もこれが鳥居が仕掛けた陰謀であろうとうすうす感じていたからでしょう。

ところがまだ出版もされていない『慎機論』と『西洋事情』の書きかけ草稿が新たな証拠として提出され、有罪とされてしまいました。投獄された華山には画家の友人や門弟などの支援者から救援運動がおこされ、そのため田原に送還、蟄居を命じられました。

しかし華山は藩主に迷惑のかかるのを恐れ、天保十二年(1841)十月十一日、腹を切って自刃しました。四十九裁でした。

この蛮社の獄を機に、洋学者は研究をしりごみし、日本の科学は停滞しました。

ところが「蛮社の獄」の翌天保十一年(1840)にはアヘン戦争があり、幕府はあわてて海防の準備にとりかかります。華山や長英の警告どおりの事態が起きてきたのでした。

 

参考

渡辺崋山 - Wikipedia

蛮社の獄 - Wikipedia

 

石井英夫 「渡辺崋山」

 


日本人よ、覚醒せよ! 間違いに気付け

2012年01月31日 17時43分10秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

バンザイクリフと呼ばれる崖から飛び降りる人の映像を見たことがある人は多いでしょう。この映像を撮るために、アメリカ軍が撮影班を仕立て、この崖に日本女性たちを狩り立てて、飛び降りるように仕向けたという話が、この記事に出てきます。そうやって撮られた映像だったということです。戦後アメリカ軍は日本の自虐意識を創り上げるために、多くの捏造した話まで使って日本軍の残虐行為を宣伝しましたが、日本軍捕虜、一般人への残虐行為は隠され、発表することも許されませんでした。

殺された日本人が、私達が日教組の教育で学んだように、日本が戦争さえしなかったなら殺されなかったと、日本を恨んでいると思ったら大間違いだと思います。彼らの無念の思い、それは卑劣なアメリカ、支那、連合国軍に対するかたきを取って欲しいという思いだったに違いありません。現に広島の原爆被災直後に、現地に入った人たちが見た、今にも死んでゆく人々は、口々にこのかたきを取って欲しいというものだったといいます。

もちろんいまさら復讐など考える人はいないでしょうが、だからといって、平和主義と称して、諸国民の公正と信義に信頼して、日本一国が武装を放棄して、不戦の誓いをすることが一体ほんとうに正しいことでしょうか。

戦争は出来る限り避けたほうがいいに決まっています。しかし、武装というのは、戦争をするためだけにあるものではないと思います。戦争を避けるためにも武装が必要なのです。国家が毅然と自主独立するためにも武装は必要であり、国家の威厳を保つためにも必要です。

他国の言いなりにならないためにも必要です。今の日本は、独立しているとは実質的には言えないのではないでしょうか。以前、フランス大統領のサルコジ氏がG8に日本を呼ぶ必要はないのではないかといったという話を聞きました。日本はいつもアメリカの言いなりで自分の意見を言わないのだから、呼んでも意味が無いと言ったという話です。こんな祖国を、亡くなった人々が期待していると思ったら大間違いだと思います。

 

 

 

 

 

 
 
今回の「日本人よ、覚醒せよ!」は高志さんの記事より日本人が知るべき事実を掲載させて頂きます。
・・・・・
 

 

 

 

占領下の日本は国旗も国歌も自由に扱う事が出来なかった。おまけに日本の場合は「自粛」というおかしな風習がある。特に指摘されなくても、自発的に気を回して相手の意向に添うのだ。

 

未だ占領下であった昭和26年頃の話だが、あるブラスバンドが練習の為に「軍艦行進曲」と「愛国行進曲」を演奏していた。そこへ進駐軍の将校が通り合わせ「素晴らしい曲だ。皆にも聞かせてやりたいから、一度うちのバンドと演奏会をやらないか」と持ちかけ、後日、二つのブラスバンドによる盛大な演奏 会が開かれたという。その演奏会で「軍艦マーチ」も「愛国行進曲」も「星条旗よ永遠なれ」や「士官学校行進曲」に劣らぬ「名曲」であるという評価を受け た。これは「米軍の前で、日本の軍歌が、戦後初めて演奏された」という特ダネ記事で報じられたが、それくらい珍しい出来事であった。
 
「軍艦行進曲」に限らず、戦前に作曲され、今はほとんど演奏される事もない名曲は数多くある。
「君 が代行進曲」「分列行進曲(抜刀隊)」「敷島艦行進曲」などは明治時代から受け継がれたものであり、「愛国行進曲」や「太平洋行進曲」は支那事変勃発後に 発表されたものだが、一般の催しで演奏される事はない。うっかり演奏したら、忽ち「軍国主義の復活だ!」などと大騒ぎする連中が多いから、トラブルを避け るために演奏しないのである。軍艦マーチは一時パチンコ屋で利用された事もあるが、心が浮き立つ様な旋律は比類のないものだ。しかし、「軍艦マーチ」を聞 いて大本営の戦果発表に胸を躍らせたのは私の様な年令が最後になる筈で、「軍艦マーチ」を聞くと戦争を連想するなどという若い人の発言には「戦争も知らず に何をぬかすか」と言いたくなる。
 
ところが、軍艦マーチの様な軍歌ならまだしも、国歌「君が代」を聴いただ けで心臓に異状を起こす病人が、教員の中にいるというから、驚くというよりも呆れた話だ。「週刊ポスト」の1月13・20日号に橋下大阪市長の「君が代条 例」に関連した特集記事が載っている。《東京の都立高校元教諭で「不起立のジャンヌ・ダルク」の異名を持つ女性教師(左下写真)は、自身のHPでこう心情 を述べている。「(式典で君が代を聞くと)心臓がバクバクし、中国大陸に侵攻した日本軍の若い兵隊が中国人捕虜を銃剣で突くように命じられた姿が浮かん だ。私は“お前は突くのか”といわれているようだった」》
 

哀 れな女である。 歪んだ知識をそのまま、疑いもなく取り込み、お粗末な想像力を働かせているのだ。日本軍の若い兵隊が、度胸をつける為と称して、捕虜を生 きたまま銃剣で突く姿はチャイナ各地の反日展示館へ行けば幾らでも見られるだろう。或いは、そういう行為が実際にあったかも知れない。しかし、国際条約に 悖る違反行為を度々犯す程、日本軍の軍規は甘くはなかった。戦場は時に人を狂気に追いやる。ベトナムでもアフガンでも残虐行為はあとを絶たないが、日支事 変で日本軍が行ったと言われている残虐行為の殆どは辻褄の合わないものばかりである。
 
敗戦後,日本を占領した連合国軍が真っ先にやったのは、日本を永久に弱体 化させる事であった。日本軍の強さは十分知り尽くしていた。こんな国が又復活したら自分達が困るから、2度と立ち上がれない様に徹底的に日本軍を悪者に仕 立て上げたのである。その口車にまんまと乗せられているのが日本人で、一番大切な教育の現場とマスコミが手先となって洗脳を行なったのだ。彼等は自分達の 父祖が辱められている事に何の痛痒も感じないらしい。
 
上海特別陸戦隊の大山勇夫海軍大尉の最期を知っているか。通州事件でどれ だけの日本婦女子が惨殺されたか。もし、そんな事件は知らないと言う様なら、もう2度と戦争の事で知ったかぶりするのは止せ。 南京大虐殺はこの事件をヒ ントにして彼らが言い出だしたもので、婦女子への残虐な行動や、子供の殺し方など日本人には想像もつかない状況が馬脚を顕わにしている。 

それに、こんな頭の弱い女をジャンヌ・ダルクに例えるのも大間違いの笑い話である。大 体、ジャンヌ・ダルクは戦場の殺人行為に真偽の判断すらつかず、心臓がパクパクする様な、か弱い女ではない。祖国の存亡を賭けたオルレアンの戦いでは兵士 たちの先頭に立って指揮を執り、イギリス軍を破ったと伝えられているが、常に軍と共にあり、心臓パクパクなんて事はなかった。


戦 時中に日本軍が「やられた」残虐行為は数多い。ニューギニア戦線では日本軍の負傷兵は生きたままブルドーザの下敷きにされ、ビルマ戦線では野戦病院に残さ れた身動き出来ない日本軍の負傷兵を、イギリス軍はガソリンをかけて建物ごと焼いている。ソ連が行なった大々的な国際法違反については今更言うまでもない であろう。
 
サイパン島には「バンザイ・クリフ」と呼ばれる悲劇の名所が ある。戦場となったサイパン島で敵に捕らえられる事を恐れた日本の女性が次々に身を投げた断崖で、実際に飛び降りる女性達の姿は今も映像に残されている。 涙なくしては見られないシーンだが、実はこの映像には演出が加えられていたのである。撮影班は、カメラを最も良い位置に据え付けるとOKのサインを送り、 合図を見たアメリカ兵たちは、まるで猟犬が獲物を追い立てる様に撮影スポットに女性たちを追い込んで行く。こうして身投げする女性たちの姿が鮮やかに残さ れたのだ。あらゆる残虐行為の中で最も悪質な行為と言えるだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

 

 


享保の大飢饉で飢民を救った井戸平左衛門

2012年01月31日 12時03分16秒 | 歴史

藷の栽培をすすめて、飢饉対策に大いに貢献し、甘藷先生と言われた青木昆陽よりも、三年も前に、甘藷で人々の飢えを救った人がいました。井戸平左衛門正明という、石見銀山を含む天領である大森(島根県西部)の代官です。

この人は、江戸の野中という家に生まれ、その後井戸家の養子となり、21歳で家督を継ぎます表火番など歴任のあと、元禄15年(1702)より勘定役に昇進し、爾来、30年同じ勘定畑を勤務し享保6年(1721)6月5日には黄金二枚を賜っています。正明49才の頃です。

この勘定所での忠勤がみとめられたのでしょう。名江戸町奉行といわれた大岡越前守忠相の推薦で、享保16年(1731)に石見地方大森の代官に任命されました。正明60歳の時でした。

ところが、正明が赴任した直後の享保17年(1732年)、有名な江戸三大飢饉のひとつ「享保の大飢饉」が西日本一帯を襲いました。中国地方から近畿地方、四国九州まで、長雨冷夏となり、夏にはウンカとイナゴが大発生して、”大虫災”が始まりました。餓死者が三十万とか二十万とか当時の資料に書かれています。

正明の仕事は、このために飢民救済に力を注ぐことになりました。正明は部下に、

「すぐ代官所の倉を開いて、米を住民に配給しろ」と命じました。部下はびっくりしました。

「そんなことをしたら、お代官の首が飛びますぞ。まず幕府の許可を得ることが先決です」と言いました。正明は首を横に振って言いました。

「こんな遠い石見の地から幕府の許可を得ていたのでは、二ヶ月あまりかかってしまう。その間に飢えに苦しむ人々がどんどん死んでしまう。そんなことは人の道として許せない。わしが責任を取るから、米の倉を開けろ」と命じました。そこで部下は命令にしたがいく倉を開けました。

飢えに苦しむ人々はもちろん喜びましたが、しかしさらに過重な年貢という負担がありました。大災害だからといって、なかなか年貢は免除されません。当座の食糧は得られたものの、それを考えると農民の気は重かったのです。

これを知った正明は、またも部下に命じます。

「今年の年貢は免除すると伝えろ」

部下は目を丸くしました。そして、

「それこそ、お代官の首が飛びますぞ。おやめください。代官所というのは、年貢を徴収するのが役割なのですから」と反対しました。しかし正明はききません。

「お前たちがやらないのなら、わしが村々に触れて歩く」と言いました。部下たちは仕方なく、むらをまわってこのことを触れました。人々はとび上がってよろこびました。

この年の4月14日、正明は養父正和の命日法要のため大森町の栄泉寺をたずねます。ここで運命的な出会いがありました。諸国修行の 途中立ち寄った僧泰永(たいえい)と遭遇したのです。 薩摩國ではサツマイモが広く栽培され、肥料も労力もいらず多収穫で痩せた土地に適合している情報を聞き、 石見地方一帯の砂地での栽培普及を決意します。

彼は直ちに江戸に対して薩摩國より大森(石見地方)へ移植のための書状をしたため、当月下旬に江戸表へ送ります。
この書状の返書が6月に届きます。その内容は幕府は正明の要請に応るもので、薩摩國は最西端にある幕府天領の地、日向國本庄まで種芋を届ける。大森藩からは、浜田港より手代伊達金三郎と僧 泰永などが種芋受け取りに船を仕立てて海路本庄へ向かいます。享保17年6月のことでありました。(泰永は下船しそのまま帰省)


この結果、種芋百斤(60Kg)は本庄川の下流、天領本庄の赤江港で大森藩に渡り、藩内に持ち帰った後、村高100石につき8本の割りで配られ植えられました。


しかし、作付けの時期が7月だったので遅過ぎたため、多くの芋は育ちませんでした。ただわずかに邇摩郡福光村(現・大田市温泉津町福光)の老農であった松浦屋与兵衛のみが種 芋を収穫することに成功しました。その後、サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり多くの飢餓から領民を救うことになりました。そのため、井戸正明は人々から、”いも代官”と呼ばれるようになりました。

このサツマイモ作戦の展開のさなかに、笠岡代官竹田喜左衛門の死去により、美作国窪島作右衛門と2名で代官所預かりの兼務 となります(享保17年6月2日)。また正明には一男一女の子がいましたが、長男の敬武(のりたけ)が享保17年5月26日に逝去、長女に入り婿として窪島作右衛 門長敷のニ男内蔵助を迎え世継ぎとしました。飢饉対策と、笹岡代官所の兼務、さらに身内での不幸と、そのための家督の後継の選任、実に慌ただしく忙しい日々が続きます。

そして、この基金における正明の行動は、幕府で大問題となります。

「事情と、井戸正明の心情はよくわかるが、しかし勝手に現場判断で代官所の米を配給したり、年貢を免除することは大罪だ」と言うのです。とりあえず罪科が決定するまで、笹岡代官所に謹慎ということになりました。

しかし結局、正明の罪科については、すべて黙認されることになりました。もしかしたら、推薦者である大岡忠相が強い態度で無罪を主張したのかもしれません。(童門冬二氏の推測)

正明は、しかし享保18年5月26日笹岡代官所にて死去しています。これは過労による病死という説と、自決であるという説がありますが、医者を呼んだ記録などがあり、おそらくは病死ではないかと思われます。

井戸正明を讃える顕彰碑は四十数ヶ所、いろいろなところに残されています。現場の判断で適切な対応をし、その責任を担う覚悟を持った人物の素晴らしさに、ただ感服するのみです。きっと腹を切る覚悟をもって行ったことでしょうが、その覚悟のできる武士が、昔はいたということです。現代の政治生命をかけると言いながら、口先だけの言葉が寒々と感じられるこの違いの大きさは、なんとも情けないものです。


その後

明治12年(1879) 井戸神社 創設 島根県大田市
明治43年(1910) 岡山県下軍事大演習の行幸に際し従四位を追贈


参考サイト・文献

笠岡遊歩 井戸平左衛門正明

「現場判断でき民を救う――井戸平左衛門」 童門冬二



「終戦の詔書」の凛々しく気高い精神

2012年01月30日 23時37分22秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

昭和天皇はどんなに状況が不利であるときでも、最大限の努力をして前向きに進んでゆかれる方です。それは日本という国を、日本の国民を守るためには、どんな事でも出来る限りのことをしようと決意し覚悟された方であるからです。天皇という御存在は、古来よりそういう御存在でした。

だから日本の終戦においても、当時の国の指導者たちが悲観し、絶望的になっている中でも、一人誠心誠意で智慧を絞られ、無血停戦を実行し、日本の将来に向けていろいろと工夫し、連合国とも交渉され、ほんとに努力されました。

終戦時において、昭和天皇という御存在が在したことは、日本の国にとって、ほんとに良かったと思います。もちろんおられるのが当然とはいえ、天皇という存在を戴く国であったことは、実にしあわせなことであったと思います。

 

 

 

 
                             (終戦の詔書)
 
 
歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
 
「終戦の詔書」の凛々しく気高い精神
 
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高知大学名誉教授 福地惇
 
 
鈴木貫太郎首班による終戦内閣(左写真)は、我が国が決して譲れない降伏条件とした「國體護持」を連合国側が認めたとの判断の下にポツダム宣言を受諾した。
 
終戦の詔書は、先ず大東亜戦争の正当性を述べ、この戦争が万やむを得ないものであったことを再認識してから、「朕は茲(ここ)に國體を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。(中略) 宜しく挙國一家子孫相伝へ、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)ひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操を鞏(かた)くし、誓って國體の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし」と宣うた。
大敗北は無念だが、自暴自棄に陥らず、正々堂々として国家再建に立ちあがろうと発せられた、実に凛々しく気高い敗北宣言である。
 
ところで、ポツダム宣言第5項は「吾等の条件は左の如し」と銘記して、第6項以下最終項の第13項に至るまで日本国の降伏条件を列挙している。
注目すべきは、第10項「日本国政府は日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし」であり、第12項「前記所目的が達せられ且つ日本国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立せらるるにおいては連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし」と明言されている点である。
有条件降伏であることは明白なのである
しかも、第10項、第12項の意味するところは、限定条件があるとしても、明らかに「國體の良い面の保持」を容認していた。それは同時に、近代国際社会の不文律=民族自決権を認めているということである。これは核心的に重要なのである。
 
連合国軍の日本国占領支配の法的根拠は「ポツダム宣言」と、同宣言を前提に日本がその後従うべき諸条項を日本政府として明記し、連合国が承認・調印した「降伏文書」である。
この二つの文書は連合国と日本国が取り交わした条約に類する国際誓約=国際協約である。
 
昭和2092日、東京湾内に停泊中の米国戦艦ミズーリ号甲板上で調印された「降伏文書」(全権外務大臣重光葵、副全権参謀総長梅津美治郎)には「茲(ここ)に『ポツダム宣言』の条項を誠実に履行する」と記されている。
敗戦国日本は、両文書に明記された諸条件を厳格に実行する義務を課せられたが、それは同時に、戦勝国側も協約を遵守する義務を負ったことを意味する。米国政府と日本政府とはポツダム宣言と降伏文書の法的拘束を受けるのである。(次回へつづく)・・・・
 
 
「終戦の詔書」、と言ってもピンとこない日本人は多いかもしれません。
玉音放送で「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以って万世の為に太平を開かんと欲す・・」と聞けば理解されると思います。この全文を読むと福地先生が仰せの通り、気高く凛々しい詔書であります。
 
よろしく挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ
 
昭和天皇は「それよく朕が意を体せよ」とのお言葉でありました。
しかし、平成の御代になっても、意を体していない我が国であります。
戦後日本の悪夢から目覚めるためにも「神州の不滅を信じ」「道義を篤くし」「志操を固くし」「国体の精華を発揚し」・・・
「開戦の詔書」「建国の詔書」とともに、日本国民はきちんと胸に刻むべきであります。
 
また、よく日本の降伏を無条件降伏と言われていますが、これも福地先生ご指摘の通り「有条件降伏」であります。
 
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」