DADA's ブログ

岐阜から発信する、DADAさんの気ままな日記です。

敦賀の「人道の港・敦賀ムゼウム」

2020年07月06日 | 国内旅行

Port of Humanity, Tsuruga Museum

敦賀市の金ヶ崎城址すぐ近くにある「人道の港・敦賀ムゼウム」を参観しました。敦賀港は、1902年から1941年にかけてウラジオストク港との間に直通航路が運航され、シベリア鉄道を利用してヨーロッパの各都市を結ぶ交通の拠点港でした。歌舞伎の市川左団次がモスクワ公演の為に、またマラソンの金栗四三もストックホルム五輪出場の為に、この港を通過しました。

 建物の外観

 展示の一部

1920年代には、ロシア革命による内戦状態で酷寒のシベリアに残されたポーランド孤児763名が、日本赤十字社の救助によって敦賀港に上陸しました。孤児たちは東京や大阪に用意された収容所に移送され、病気の治療や栄養失調の回復を受けたのち、横浜や神戸から母国ポーランドへと帰国して行きました。

1940年代には、ナチスドイツの手から逃れたユダヤ人難民約6000人が、リトアニア・カウナスの杉原千畝代理領事が発給した「命のビザ」を持ってシベリア鉄道経由でウラジオストクに到着。そこで当時のJTB職員であった大迫辰雄氏の支援により、ついに日本海を超えて敦賀港に上陸。その後難民たちは神戸や横浜からアメリカなど安住の地を目指しました。

 赤レンガ倉庫

杉原千畝が発給した「命のビザ」を手にした6000人のユダヤ人を救う命のリレーを繫いだもう一人の日本人がいたことを、ここで知ることが出来ました。

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敦賀の金ケ崎城址

2020年07月06日 | 国内旅行

Kanagasaki Castle Ruins

光秀ゆかりの地として、福井県敦賀市にある「金ヶ崎城址」を訪れました。越前の朝倉攻めで敦賀に侵攻した信長は、「金ヶ崎城」を攻略してここから朝倉氏の本拠である一乗谷に進軍しようとした矢先、同盟関係にあった北近江の浅井長政が裏切り、朝倉軍と浅井軍との挟み撃ちに会う窮地に陥りました。

 金崎宮

 眼下に敦賀湾

浅井長政の裏切りを信長に知らせたのは、長政に嫁いでいた信長の妹・お市の方で、両端を紐で結んだ小豆袋を送り「袋のネズミ」を暗示させた、という逸話が残されています。

信長は若狭経由で京都に撤退を決め、そのしんがり役を光秀と木下藤吉郎(後の秀吉)が務め、退却を成功させたとされています。光秀にとってここはその後の活躍昇進への「飛躍の地」となりました。

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