1月30日(木)曇り後晴れ。寒気緩む。
昨日の地元山梨日日新聞の社会面を見ていたら、『拓銀破たん 旧経営陣に賠償101億円 訴訟3件 最高裁判決 全5件が確定』なる見出しが目に飛び込んできた。
記事には、『破たんした北海道銀行にずさん融資で損害を与えたとして整理回収機構が山内宏元頭取ら旧経営陣に損害賠償を求めた訴訟の3件の上告審判決で最高裁第二小法廷は28日、請求を全面的に認めた。機構が計14人を追及した5件の訴訟は終結した。総額101億4千万円に上る13人の賠償責任が確定した。…』とあった。
他人様のことながら、人生の最晩年になってこんな高額な賠償責任を突きつけられたらどんな気持ちになるだろうかと想像せずにはいられなかった。
これに類した事件では、旧足利銀行の経営陣が、その責任を問われ、一人当たり100万円を残して全財産没収、関係者はこれからの生活に途方にくれているとの新聞記事を見たのも、昨夏だっただろうか。
かの高名なホリエモン氏や村上ファンド氏のようにまだ30台や40台の若さでなら、敗者復活も夢見られるだろうが、60、70台となっては、とてものことではないだろう。
こんな記事を読んでいた手元に『座右の諭吉 才能より決断』(斉藤孝 光文社新書)があった。
その1章に「極端を想像す」なる一文がある。
そこには、福翁自伝の1節『元来私が家に居り世に処する法を一括して手短に申せば、すべて事の極端を想像して覚悟を定め、マサカの時に狼狽せぬように後悔せぬようにとばかり考えています。』が引用されていた。
成る程、人生の達人の心構えはさすがである。
このような心構えで一家のみならず、国家をも差配していただければ、先の大戦のような悲惨さも回避されたにちがいない。
このような支配者の下ならば、国民はいかに安心して幸福に暮らせることだろうか。
しかし、そのような心構えの大切さは大方の人間にとってごくあたりまえのことだろう。私とて頭の中では百も承知している。
だが、それを実行するとなると、一体百人のうち何人ができるだろうか。私は駄目だった。
そして今臍をかんでいる始末である。我が祖父もそうだった。壮年期には相応の財をなしながら、晩年は先の大戦の大波の中で全てを失い、惨めな生涯を終えた。
それを幼心にも見ていながら、私もまた似たような老いの坂をころがりおちつつある。
そのような我が身の視点から、冒頭の諸氏に課せられた重い責任を思うと決してそこに至った経過をあざ笑う気にはなれない。
むしろ、我慢ならないのは、今、大方の国民がやりきれない思いにさせられている年金問題を発生させた厚生労働省や、社会保険庁の関係者の責任のほうこそ、一体誰がどのようにとらされるのかということである。
もれきこえくるところによれば、こちらの歴代最高責任者は、誰一人責任をとるどころか、天下りの梯子で億万長者様とか。
同じ法治国家の国民でありながら、官と民との身の置き所の違いで天と地の差が出るとは、一体どういうことなのだろうか。
こちらは、一人を殺したものは殺人犯で、万人を殺したもは英雄とされる人間心理の不可解さに溶解されていくのだろうか…と、老耄の頭を悩まされるばかりではある。
ところで、文中の『座右の諭吉 才能より決断』(斉藤孝 光文社新書)は、我が息子のマンションの居間に転がっていたのを何気なく拾ってきたものである。
まだ30台の若さでこんな本を読んでいるとは、よほど親の生き行く姿が危なっかしげに思えたのだろうか。
息子は我が轍は踏むことなく、安泰な晩年を迎えることは疑い無しのようである。
愚昧な親としては、以ってせめてもの慰めとすべきかだろうか。
昨日の地元山梨日日新聞の社会面を見ていたら、『拓銀破たん 旧経営陣に賠償101億円 訴訟3件 最高裁判決 全5件が確定』なる見出しが目に飛び込んできた。
記事には、『破たんした北海道銀行にずさん融資で損害を与えたとして整理回収機構が山内宏元頭取ら旧経営陣に損害賠償を求めた訴訟の3件の上告審判決で最高裁第二小法廷は28日、請求を全面的に認めた。機構が計14人を追及した5件の訴訟は終結した。総額101億4千万円に上る13人の賠償責任が確定した。…』とあった。
他人様のことながら、人生の最晩年になってこんな高額な賠償責任を突きつけられたらどんな気持ちになるだろうかと想像せずにはいられなかった。
これに類した事件では、旧足利銀行の経営陣が、その責任を問われ、一人当たり100万円を残して全財産没収、関係者はこれからの生活に途方にくれているとの新聞記事を見たのも、昨夏だっただろうか。
かの高名なホリエモン氏や村上ファンド氏のようにまだ30台や40台の若さでなら、敗者復活も夢見られるだろうが、60、70台となっては、とてものことではないだろう。
こんな記事を読んでいた手元に『座右の諭吉 才能より決断』(斉藤孝 光文社新書)があった。
その1章に「極端を想像す」なる一文がある。
そこには、福翁自伝の1節『元来私が家に居り世に処する法を一括して手短に申せば、すべて事の極端を想像して覚悟を定め、マサカの時に狼狽せぬように後悔せぬようにとばかり考えています。』が引用されていた。
成る程、人生の達人の心構えはさすがである。
このような心構えで一家のみならず、国家をも差配していただければ、先の大戦のような悲惨さも回避されたにちがいない。
このような支配者の下ならば、国民はいかに安心して幸福に暮らせることだろうか。
しかし、そのような心構えの大切さは大方の人間にとってごくあたりまえのことだろう。私とて頭の中では百も承知している。
だが、それを実行するとなると、一体百人のうち何人ができるだろうか。私は駄目だった。
そして今臍をかんでいる始末である。我が祖父もそうだった。壮年期には相応の財をなしながら、晩年は先の大戦の大波の中で全てを失い、惨めな生涯を終えた。
それを幼心にも見ていながら、私もまた似たような老いの坂をころがりおちつつある。
そのような我が身の視点から、冒頭の諸氏に課せられた重い責任を思うと決してそこに至った経過をあざ笑う気にはなれない。
むしろ、我慢ならないのは、今、大方の国民がやりきれない思いにさせられている年金問題を発生させた厚生労働省や、社会保険庁の関係者の責任のほうこそ、一体誰がどのようにとらされるのかということである。
もれきこえくるところによれば、こちらの歴代最高責任者は、誰一人責任をとるどころか、天下りの梯子で億万長者様とか。
同じ法治国家の国民でありながら、官と民との身の置き所の違いで天と地の差が出るとは、一体どういうことなのだろうか。
こちらは、一人を殺したものは殺人犯で、万人を殺したもは英雄とされる人間心理の不可解さに溶解されていくのだろうか…と、老耄の頭を悩まされるばかりではある。
ところで、文中の『座右の諭吉 才能より決断』(斉藤孝 光文社新書)は、我が息子のマンションの居間に転がっていたのを何気なく拾ってきたものである。
まだ30台の若さでこんな本を読んでいるとは、よほど親の生き行く姿が危なっかしげに思えたのだろうか。
息子は我が轍は踏むことなく、安泰な晩年を迎えることは疑い無しのようである。
愚昧な親としては、以ってせめてもの慰めとすべきかだろうか。