monologue
夜明けに向けて
 

mizumo  



 「水面」と書いてあなたはなんと読むだろう。
「スイメン」が普通だが歌の中では「ミナモ」が多い。
たまに「ミズモ」も聞くことがあるが「ミナモ」のほうがかっこよく聞こえる。
詩的に感じるからだろうか。
 まだテレビのできていない頃、わたしは京都市下京区に住んでいた。
友達のお母さんが窓口にいたので近くの映画館に入り浸(びた)っていた。
そこで鞍馬天狗などの映画をただで見ていたのだ。
その映画館の名前が「八雲座」だった。
その意味が出雲の国で島根県を示していたことを知ったのはずいぶん後年のことである。

 「記紀」によるとスサノオの粗暴なふるまいに腹を立てた天照大神が天の岩屋に隠れてしまってため、
スサノオは高天原を追放されて葦原中国の出雲へ降りた。

 そこで八岐大蛇を退治し、クシナダヒメを妻として、出雲の須賀(すが)の地で
「日本初の和歌とされる「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」と詠んだ。
それで「八雲」は出雲を象徴する言葉となっている。
ではなぜかれは島根県を「八雲」と名付けなかったのだろうか。
べつに「出雲」と言い換えなくとも良かったのではないか。
しかし、かれには出雲と呼びたいわけがあったのだ。
それはイズモの音霊(おとだま)IZUMOが「ミズモ」MIZUMOと通じるから。
かれは元々「海原を治めよ」と命じられていたのだった。
かれは自分の治めるべき地を水面(ミズモ)と定め、その音霊に従って「出雲」と名付けた。「出雲」とは「水面」のことであった。
「水面」を「ミナモ」と発すればスサノオの意図したIZUMOの音霊が失われてしまう。
スサノオは天界から水面に降りてきたのであった。
そして、そこにかれの物語を書いたのである。
それがわれらが国、日本の物語の始まりとなった。
  
        <水面に書いた物語>
      (Story on the water)

    決して決して 巡りあっては いけない人に
    なぜになぜに 巡りあって 痛みをわかちあう


 1.今 流れに写すこの恋は ah ネオンの色の蜃気楼
   今  わずかな波にざわめいて ah 水面に書いた物語

   決して決して 見つめあっては いけない人と
    なぜになぜに 見つめあって 思いをつのらせる

   たとえたとえ 空が落ちても 思い切ることできない
   たとえたとえ 山が裂けても
   耐えて耐えて 燃えて燃えて 溶けて融けて ほどきほどかれ
 
   できるならば 巡りあわない頃に帰して
   できるならば何も知らない 少女にもどらせて
   

2. 今 夜明けの夢のアヤウサは ah ふたりで覗く万華鏡
   今 かすかにゆれて消え残る ah 水面に描くルノワール
   
   決して決して 愛しあっては いけない人と
   なぜになぜに 愛しあって 哀しみ深めあう

   もしももしも 海が割れても 忘れ去ることできない
   もしももしも 胸が裂けても 
   求め尽くし 与え尽くし 祈り尽くし 奪い奪われ

   できるならば 巡りあわない頃に帰して
   できるならば 何も知らない瞳にもどらせて

    決して決して 巡りあっては いけない人に
    なぜになぜに 巡りあって 悩みをわかちあう

    できるならば 巡りあわない頃に帰して
   できるならば 何も知らないあの日にもどらせて

水面に書いた物語を聴く
fumio
  


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