monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインagainその41
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ミックスダウンとはトラックダウンとも呼び、8チャンネルトラック、16チャンネルトラック、24チャンネルトラックなどに録音したばらばらな楽器や歌をひとつにまとめ作品に仕上げる作業のことである。そのとき、各楽器の音色を調整し音量のバランスをとり、エフェクターをかけたりヴォーカルにエコーやリバーブをかけたりする作品完成のための最重要な作業なのである。
レコードのレコーディングはエジソンが「メリーさんの子羊」を歌ってレコード盤に直接刻んだ時代からテープを使用する1チャンネル1トラックのモノラルから2チャンネル使用するステレオへそしてビートルズの4チャンネル多重録音に始まるアナログ多重録音へと移りそして倍々(バイバイ)ゲームで8チャンネルそしてすぐに16チャンネルのスタジオが主流になりそれからなんと24トラックという大きい立派なスタジオが当たり前になってしまった。それでわたしたちもアルバム「PROCESS」のプロジェクトではハリウッドのチャイニーズシアターの向いのビルにあった「ガナパーチ」というインデイアン名のエンジニアがやっている24チャンネルスタジオPARANAVA STUDIOを録音に使用しのだがプロデューサーとしての宮下富実夫は厳しくて最高の作品を製作するためにはガナパーチのPARANAVA STUDIOはレコーディングには使用してもミックスダウンには機材がふさわしくないと判断した。理由は基本的な設備、装置や機材。それで当時最新最高の機材やエンジニアを揃えた有名スタジオインディゴランチ・スタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)に予約を入れた。それでPARANAVA STUDIOにおいてすべての録音を完了してできあがったレコーデイング済みテープのミックスダウンにはインディゴランチ・24トラッスタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)を使用することになったのだった。
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わたしは高校時代アメリカのヒットランキングをノートにつけていたのだが1965年のブリティシュ・インヴェィジョンの頃、Moody Bluesという英国のバンドのGo Now という曲がヒットした。おきまりのリズム&ブルースを基調にしたロックバンドだと思っていたのだがのちにポ-ル・マッカートニーに誘われてウイングスに参加するギターのデニー・レインが脱退してから採り上げる曲想が Tuesday Afternoon のようにがらりと変わってしまった。それからかれらの音楽はプログレッシヴロックと呼ばれるようになった。ヒットを目指すのではなく独特の思想性や内省的な世界観を表現しているようだった。
わたしたちがミックスダウンを行うことになったインディゴランチ・スタジオはそのムーディブルースが始めたスタジオでマリブの丘の上にあった。ニール・ダイアモンド、ヴァン・モリソン、ビーチボーイズ、ニール・ヤングといったミュージシャンたちがレコーディングに使用し、オリヴィア・ニュートン・ジョンはアルバム 「Totally Hot」 を78年にそこでミックスダウンしている名スタジオだった。

1980年11月4日、その日、わたしの一家は朝からピクニック気分でおにぎりを作って用意した。インディゴランチ・スタジオの中では昼食は買えないということなのでエンジニアの分まで作って持っていった。宮下富実夫の家族、島健の家族とみんなで曲がりくねった坂道を宮下一家の大きなヴァンに乗り込んで登って行った。着いたところはUFOが飛来するという噂にふさわしい趣(おもむき)のあるスタジオだった。わたしたちがスタジオに入っている間、家族たちはロビーや丘陵の広い庭で過ごすことができる環境であった。INDIGO RANCH(インディゴ・ランチ) 24chスタジオは当時最高のレコーデイング設備を備えていた。 スペイン語のランチョ(別荘)のように山の中腹にあるのでミキシングの日はピクニックのようだった。それで朝から妻が多くのおにぎりを握り、付け合わせのおかずを用意して行ったのだ。
プロデュースの宮下フミオの指揮の下、各楽器の音決めから試行錯誤のミキシングが進んだ。エンジニアはメインとサブがいて数人の助手がテープ類を用意してくれた。プロデューサーとしての宮下富実夫がまず中央に陣取りわたしと中島がその左右に座る。宮下は普段の友達関係の仮面を脱ぎ真剣勝負モードに入った。
24トラックの元テープをまわし、まずドラムスの音から音色を決めてゆくのだがそれに一番時間がかかった。スピーカーはJBLで音が粒立って聞こえる。細部まで視覚化して見えるように再生する。他の楽器やヴォーカルの音決めはあまり問題なく進んだ。それから一曲ずつ各楽器と歌のバランスやリバーブ、エコー、エフェクターなどのかけ具合など時間をかけてミックスしてステレオマスター・テープを作ってゆくのである。初めの録音時、杉本圭がまだ不慣れなためにいわゆる白玉全音符でコードを押さえていただけのストリングアンサンブルのパートを宮下がこのミックスダウンの際に演奏のリズムに合わせて調整卓のフェーダーを上下してリズム感を出した。昼には宮下家の家族、関わったミュージシャン仲間、ミキシングエンジニアなど弁当を持ってきていない、みんなにおにぎりをふるまった。昼食はアメリカ人のエンジニアも和気藹々とおにぎりを食べてくれた。宮下が個人的に多重録音した「嵐」だけはミックスをひとりにまかせた。じゃまにならないようにわたしたちは席をはずしたのだ。一休みしてふたたびやり直して最終曲まで進み多くの耳で何度も何度も聴きなおしてみんながOKした時、やっと終了する。午後も集中してミックスを続けついにマスター・テープができあがってスタジオの壁に埋め込みになっている大スピーカーから出る音をみんなで聴き直していると「ドラゴン・ライダー」 でスタジオ全体が飛んでいるような錯覚に襲われた。今もあの時の感覚がわたしのどこかに残っている。
fumio

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