monologue
夜明けに向けて
 



1974年9月12日(木)

掃除機の音で目覚める。
下におりるとドッグフード入れの容器を鼠がかじってしまっていると母がいった。
プラスティックの大きな容器だが見事に穴があいている。もう少しガンバレば鼠一匹ぐらいは入れるだろう。
捕鼠器を横においたがこんなものはちっともひっかからない。敢闘精神で鼠と対決しなければ、しまいに家中のものをかまれてしまいそうだ。徹底抗戦あるのみ。

スズシイ朝だ。サワヤカな秋を感じる。小鳥たちはセワシなそうにせまいカゴの中で飛び交っている。人生もあんなものだろう。
はたして今の世界が理想の世界なのだろうか。いったい人類はどんな世の中を目指しているのか。ぼくにはつかめない。なにをしにこの地球に人類は生まれたのか。もし理想の世界をつくりえた時どうなるというのか。幸福になるということか。幸福とはなんだ。満足することか。心が満たされることだとすれば人類には決して得られることはないだろう。
それは人がなにか望みをかなえられてもすぐにその状態に馴れて次の何かを欲しがるからだ。そこに進歩があると人はいうだろう。
進歩とは何か。幸福とは何か。
はたして人類はどこに向かって進んでいるのだろう。もう足元は崖になっている、という人々がいる。
踏みだせば奈落にまっさかさまに落ちるばかりだ。それなのに人々は歩むことをやめない。終局は目前にせまっているのだろうか。その終末こそが人類の求め続けたものなのだろうか。そしてぼくもその中のひとりとして歩いているのだ。
「幸福という名の終末を求めて」

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昨日、ふと以前の日記を読み返した。青年期のわたしはこんなことを考えていたらしい。この前年に7年間務めた大阪高槻の松下電子工業を米国で音楽をやるからといって退職している。そして1976年11月2日に米国ロサンジェルス空港に到着した。それから10年間米国で暮らしたのである。
fumio

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