monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインagainその43
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ある時、エンターテイナー仕事の相棒ギタリスト中島茂男がしばらくサンフランシスコに行くと言い出した。わたしはわずかばかりの餞別を渡し見送った。
それから仕事は振り出しに戻った。わたしはアコースティックギターにギターマイクをつけてひとりでエンターティナーの仕事をこなした。
そのころ、島健 はジャズ雑誌のファン投票で上位に入るトランペッター、アル・ヴィズッティ (AL VIZZUTTI)のバンドでキーボードを弾いていたがそれだけでは生活できないのでクラブのピアニストも始めた。わたしはその店に仕事ではなく客のフリして訪れてかれの伴奏でスタンダードやポピュラーソングを歌ったりした。
 ある音響メーカーの新製品のPCMレコーダーがいかにクリアな音でデジタル録音できるかのテストと宣伝のためにジャズバンドの紹介をわたしは頼まれて、アル・ヴィズッティのバンド を紹介した。ひとり100ドルのペイで請け負って、ドラムス、ベース、ギター、キーボード、トランペットとプロユースのスタジオで時間をかけてPCM録音した。それが日本でその社の宣伝資材として使用されたのだった。
そのとき、島健はキーボードをハモンドオルガンの名器B3の音が出る設定にしたと自慢していた。一般の人には、それがどうした、という話題だがわたしは感心してその音を聴いた。かれは仕事をまわしたお礼にわたしの曲をアレンジしてやる、といっていた。
そして、中島茂男はいつのまにか、サンフランシスコから戻ってきていたがもうエンターティナーには戻る気はなく別の方向に転進していた。それでわたしは中古のギブソンレスポール・エレクトリックギターを購入してふたたびひとりでエンターティナーを始めた。どんな形態であろうと歌を歌い人を楽しませて暮らせることは幸せだった。
宮下富実夫、中島茂雄、山下富美雄、そして島健というバラバラな指向性をもつミュージシャンたちをほんの一瞬邂逅させてアルバム「プロセス」を作らせ、ふたたびチリジリにした存在の意図は奈辺にあったのだろう。
fumio


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