80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

戦災後の町(2)

2010-07-03 18:06:49 | 戦争体験
 戦災後、何日たってからだったろうか従姉と本牧の大里町から岡野町

にある女学校まで、あちこち電線が切れて垂れ下がっているのを見たり、

防空壕が焼けて崩れているのを目にしながら、風で焼けたとたん板が

がたがた音をたてている中を焼け跡の大通りの真ん中を、市電のまだ

通っていない道を歩いて行ったのだが、学校は多少焼夷弾の痕は残って

いたものの何とか焼け残っていて無事だったが、ご近所の焼け出された

人々が大勢入り込んで、ごった返していた。

 2階の一番奥の部屋は霊暗所となり、多くのご遺体が安置され、救護

所になっている部屋の前には多くの怪我人たちが疲れきった様子で長い

列を作っていた。

 各教室の中にはまだ汚れたままの衣服に身を包んだ老人や女たちと

学齢前の子供たちで溢れていて、それぞれ焼け残ったわずかばかりの

所帯道具を前に不安げな様子であった。

廊下にはコンロを持ち出し、もうもうと煙をあげて、煮炊きしている

人々がいた。

 つい数日前まであんなに私たちが一生懸命磨いていた学校は煤けて

薄汚いところになっていた。

廊下の彫り模様のあるタイルも真っ黒で、其の模様すらわからない汚

れようだったのである。

 毎日、お雑巾を固く絞って、其のタイルの模様の中にお雑巾の端を

差し込んで、丁寧に綺麗に磨いていたのに、なんと数日の間に見る影

もなく変貌してしまっていたのだ。

 

 その後学校から生徒たちに呼び出しが掛かったが、電話はもちろん

使えるわけがなく、お互いにお友達の焼け跡を訪ねあって、焼け跡に

連絡先が書かれてある木札などがあれば、其処へお訪ねしたり、道で

偶然出会ったりとかして学校の屋上に集まれたのは先生数人と一割に

も満たない生徒たちであった。

其の日教室はもちろん大勢の戦災者たちに占拠されていたので、戦災

者たちの洗濯物のはためいている屋上の一角で、私たちはお互いの

無事と再会を喜びあい、来られなかった友達の安否を心配し、何とか

情報交換をしながら、6月23日からの学徒動員に対するお話を聞い

たのである。

一部の三年生の生徒は松屋デパート「当時の横浜きっての繁華街であ

る伊勢崎町商店街の一番はしにあった)の中を改造して旋盤工場が

出来ていたところへ学徒動員されることが決まり、私たち戦災者は

寮に入れと言われ、海軍航空技術省支廠の釜利谷寮に入り、金沢八景

から金沢文庫の間にあった海軍の魚雷工場に配属される事になったの

であった。

  (つづく)