北円堂を知らずして奈良の歴史は語れない
「リベラリズムの終わり~その限界と未来(萱野稔人著・幻冬舎新書2019刊)」を読んだ。萱野稔人(かやのとしひと1970生れ)氏は、早大(文学部)卒、パリ第10大学大学院(哲学科)博士課程修了。哲学者/津田塾大学教授である。------
裏表紙の抜き刷り文は次の通り。自由を尊重し、富の再分配を目指すリベラリズムが世界中で嫌われている。米国のトランプ現象、欧州の極右政権台頭、日本の右傾化はその象徴だ。リベラル派は国民の知的劣化に原因を求めるが、リベラリズムには、機能不全に陥らざるをえない思想的限界がある。これまで過大評価されすぎていたのだ。リベラリズムを適用できない現代社会の実情を哲学的に考察、注目の哲学者がリベラリズムを根底から覆す。------
章立てはあっさりしていて、次のようである。“私たちはリベラリズムをどこまで徹底できるのか~古典的リベラリズムの限界にtついて”、“リベラリズムはなぜ弱者救済でつまずいてしまうのか~現代リベラリズムの限界について(リベラル派への批判の高まりは社会の右傾化のせいなのか/リベラリズムはパイの分配をどこまで正当化できるのか)”------
日本人は往々にして横文字をカタカナにした用語を深く考えずに常用しているが、“リベラリズム/リベラル派”もその典型であり、萱野稔人氏のフランス仕込の哲学的考察の軍門に下るのである。-----
リベラル政党が理想論を語っても、日本に限らず欧米にしても経済的蓄積が無ければ手厚い富の再分配は不可能なのだと、味もそっけもなく突放している。------
功利主義者を全体主義者と罵る前に、リベラリズムの限界を知るべきだとも強調している。リベラリズムはそれほど強力でもなく恰好の好いものではないのだと、分からず屋にも理解できるようにくどい位に解説してくれている。そして多分、萱野稔人氏は左翼でも右翼でもなく、弱者への愛情にあふれた人物であるのだろう。リベラル派が大判振る舞いをしたければ、先ずは経済を活性化させよと宣(のたも)うている。文系学者にしては珍しく理系の社会での活躍を推奨する知恵をお持ちのようだと思った。弱者への憐みを感じるくらいなら、二宮尊徳のように用水路を掘るとか、愛知用水を開削して農耕地を増やすような活動こそが大切だと思い至るべきだというのだ。然もありなん。