道楽ねずみ

ドイツに関するものを中心に美術展,オペラ,映画等の趣味の世界を紹介します。

高須四兄弟展(新宿歴史博物館)

2014年09月24日 | 美術道楽
新宿歴史博物館で開催中の「高須四兄弟展」に行って参りました。
高須四兄弟とは、美濃高須藩松平家に生まれ幕末に活躍した四兄弟、つまり徳川慶勝(よしかつ)、一橋茂栄(もちはる)、松平容保、松平定敬(さだあき)の4人の兄弟を指します。

美濃高須藩は、尾張藩の支藩ともいうべき立場で、当主も尾張徳川家の分家(尾張徳川家御連枝)という立場であり、尾張徳川家に世継ぎがないと美濃高須藩から出るという立場にありました。徳川吉宗の時代の尾張藩主徳川宗春は、尾張藩の御連枝支藩の陸奥梁川藩主から尾張藩主となりましたが、その陸奥梁川藩と同様の地位にあります。
美濃高須藩の高須松平家は代々、摂津守を名乗り、現在の新宿歴史博物館の近くに屋敷を構え、それが地名の「津の守坂(つのかみさか)」の由来になっています。尾張藩上屋敷は、現在の防衛省の位置にあったのですから、高須松平家は、国元の位置だけではなく、江戸の上屋敷も近所であったことになります(因みに、高須松平家は、角筈にも屋敷を持っていたとのことです。)。

さて4兄弟ですが、まず名前で分かるのですが、松平容保を除く兄弟は、いずれも代々の将軍(家慶、家定、家茂)の諱名をもらっています。

徳川慶勝は、尾張徳川家の藩主となりますが、井伊直弼の時代には徳川斉昭らと歩調を合わせ(幕末の時期には高須松平家は、姻戚・養子縁組関係を通じ、むしろ水戸藩の影響が強くなっていたとのことです。)、安政の大獄の際には蟄居となり、隠居します。その後も前藩主として影響力を持ち、再度、藩主にも復帰し、第一次長州征伐の際には総司令官となりますが、長州藩には寛大な措置をとり、戊辰戦争に際しては政府軍に付きます。日経新聞に掲載された「黒書院の六兵衛」にも、江戸城明渡しの際に市谷の上屋敷から藩士を使わすお殿様として登場しています。

一橋茂栄は、いったんは隠居させられた兄慶勝に代わって尾張藩主となりますが、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後は尾張藩に居場所もなくなり、藩主を退きます。しかし、その後も、徳川家茂の側近として働き、家茂の代わりに朝廷との交渉を行うこともあったようで、家茂の信任が厚かったようです。一橋慶喜が将軍となると、かわって一橋家の当主となり、幕府側の立場で新政府との交渉に当たったとのことです。

松平容保(会津中将)や松平定敬(桑名中将)のことは、紹介するまでもないでしょう。松平定敬は、桑名では政府軍と戦うことができず、その後、会津や箱館にまで行って政府軍と戦います。

四兄弟ですが、この展覧会では、知名度において弟2人に劣る上の2人の兄弟の活躍についての解説の方が詳しかったような気がします。弟2人の話は、明治維新全般での解説の中での言及の方が多かったように思われます。
家系図、書画なども大変興味深く見ました。特に徳川慶勝は、達筆でしかも気迫のこもった書を書くように思われました。
最後には1878年に撮影された四兄弟の写真も展示されていました。上の2人の兄弟は、賊軍となった2人の弟の名誉回復のために尽力したようです。

この展示の中で、一番驚きましたのは、尾張藩徳川家の初代藩主義直が、朝廷と武家との間に何かことがあれば朝廷の側に付けという家訓を残していたとのことです。それは、尾張徳川家の徳川宗家への反発(徳川家光は、徳川義直にとっては甥に当たる。)もあったのかもしれませんし、たとえ宗家がつぶれても徳川家の家名は残したいという思いもあったのかもしれません。いずれにせよ。このような家訓は明治維新の際に尾張徳川家が政府軍に付くことを正当化することを可能にし、行動の選択肢を広めたのではないかと考えました。