1279年3月19日,南宋は滅亡しました。
南宋の命脈は1276年に首都臨安(杭州)が陥落し,皇帝が降伏した時点で実質的には終わっていましたが,宰相陸秀夫は皇子を皇帝に推戴し,抵抗運動を続けていました。しかし,宰相陸秀夫に率いられた南宋も,広州湾で元の海軍と戦い(崖山の戦い),破れたことによって,完全に命脈を絶たれることになります。陸秀夫は戦闘中,船内で幼帝衛王に「大学」の講義をしていましたが,敗北を悟り,皇帝を抱いて入水しました。その様子はさながら平家物語の壇ノ浦の合戦のようです。
その後も別の家臣,張世傑はベトナムに亡命して再起を図ろうとしますが,船が転覆して志を遂げることができませんでした。張世傑は,天が宋を滅ぼそうとするなら,この船を覆せと叫んだところ,船が覆ったそうです。十八史略の最後の記述は,「船覆る,世傑溺る(この部分は自信がありません。),宋滅ぶ」と極めて短く締めくくられていた記憶です。
南宋の命脈は1276年に首都臨安(杭州)が陥落し,皇帝が降伏した時点で実質的には終わっていましたが,宰相陸秀夫は皇子を皇帝に推戴し,抵抗運動を続けていました。しかし,宰相陸秀夫に率いられた南宋も,広州湾で元の海軍と戦い(崖山の戦い),破れたことによって,完全に命脈を絶たれることになります。陸秀夫は戦闘中,船内で幼帝衛王に「大学」の講義をしていましたが,敗北を悟り,皇帝を抱いて入水しました。その様子はさながら平家物語の壇ノ浦の合戦のようです。
その後も別の家臣,張世傑はベトナムに亡命して再起を図ろうとしますが,船が転覆して志を遂げることができませんでした。張世傑は,天が宋を滅ぼそうとするなら,この船を覆せと叫んだところ,船が覆ったそうです。十八史略の最後の記述は,「船覆る,世傑溺る(この部分は自信がありません。),宋滅ぶ」と極めて短く締めくくられていた記憶です。
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