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老子第5章 “ 天地は仁あらず、万物を持って蒭狗(すうく)となす。聖人は仁あらず、百姓をもって蒭狗となす ”
耳にたこができるほど聞いた言葉ですが、今もって新しい。
私ではなく、友田が訳したものをかいつまんで載せると、
・・・愛情だとか親切だとか、慈しみだとか、そんな言葉で呼ぶようなものは、天地にはありはしないのだ。お祭りに使う蒭狗(犬や馬などのお飾り)のように、用が済めばポイっと捨てるか、燃やしてしまう。
聖人には仁なんて呼べるようなものは何もないのだ。国民・大衆をすべて、必要な限りは大切にしているけれども、必要がなくなればもうゴミくず扱いしてしまう・・・。
と。
これを最初に読んだ時は、いったい何を言っているのか?恐ろしい!の私でしたが、そのあとずうっとそして今も、この言葉には救われております。
文字通り受け取るかどうかは、その人その人の自由なのでしょうが、カウンセラー歴22年(これだけが自慢です&爆笑)の私には、いつも優しく同時に戒めの言葉として響いております。
付け加えると、この日参加されたKさんなどはこれを、身もふたもない自分のようだ(?)と評しておりました。
またコロナ前に参加されて以来、おおよそ3年ぶりのFさんは私と同じように、今もって新しいと言っていたような気がします。
毎週、それができなければせめて毎月、この「みちのく」の学習会ができればいいなあと思う私ですが、年を重ねた私は物理的な理由でできなくなってしまい、甚だ残念です。
※ご参考までに老子49章に聖人と百姓が再び登場しますが、もしご興味のある方はそちらも併せてご覧くだされば幸いです。
老子第5章 “ 天地は仁あらず、万物を持って蒭狗(すうく)となす。聖人は仁あらず、百姓をもって蒭狗となす ”
耳にたこができるほど聞いた言葉ですが、今もって新しい。
私ではなく、友田が訳したものをかいつまんで載せると、
・・・愛情だとか親切だとか、慈しみだとか、そんな言葉で呼ぶようなものは、天地にはありはしないのだ。お祭りに使う蒭狗(犬や馬などのお飾り)のように、用が済めばポイっと捨てるか、燃やしてしまう。
聖人には仁なんて呼べるようなものは何もないのだ。国民・大衆をすべて、必要な限りは大切にしているけれども、必要がなくなればもうゴミくず扱いしてしまう・・・。
と。
これを最初に読んだ時は、いったい何を言っているのか?恐ろしい!の私でしたが、そのあとずうっとそして今も、この言葉には救われております。
文字通り受け取るかどうかは、その人その人の自由なのでしょうが、カウンセラー歴22年(これだけが自慢です&爆笑)の私には、いつも優しく同時に戒めの言葉として響いております。
付け加えると、この日参加されたKさんなどはこれを、身もふたもない自分のようだ(?)と評しておりました。
またコロナ前に参加されて以来、おおよそ3年ぶりのFさんは私と同じように、今もって新しいと言っていたような気がします。
毎週、それができなければせめて毎月、この「みちのく」の学習会ができればいいなあと思う私ですが、年を重ねた私は物理的な理由でできなくなってしまい、甚だ残念です。
※ご参考までに老子49章に聖人と百姓が再び登場しますが、もしご興味のある方はそちらも併せてご覧くだされば幸いです。
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