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第4回老子を読む会の後で

2009年09月27日 09時38分37秒 | 各種ワークショップのご案内
“たとえじたばたしたとしても、じたばたしている自分に気がつけば、その状態が自然に変わってゆく、あるいは、自分でも変えられる。”
私に今、残っているのはこの感覚です。

今回の「老子を読む会」は、かなり珍しいことだけど、特別、書きとめておくほどのことはなかったなあなんて思っていたら、(なので、今回は振返りもパスしようなどと、お気楽にしていたのですが)そう思った瞬間に、これが出てきました。
「何年たっても、何を学んだところで、やはり、じたばたするときはじたばたするもんだ、少しだけかっこつけるとしたら、昔に比べたら、本当に比べたらの話だけど、そんな状態が、以前ほど長くは続かなくなった。そして、その続かないあたりを見たときに、これに思い当たりました」
とまあ、こんなところでしょうか。
もう少し丁寧に書きますと、“ ”の中の、“自分でも変えられる”だけの気づきだった私でしたが、ある方が「俺はどちらかと言うと、自然に変わってゆくの方かなあ!」の言葉から、そうっかあ!どちらかと言ったら、私には両方の場合があるわに、落ち着きました。
こんなふうに言葉に出してみて、それを他人が聞いてくれることで、さらには関わってもらえることで、自分の気づきに、幅が生まれるようです。
やはり、一人で本を読んで学習するよりも、みんなと学習する方がいいですね。

ここで少し気をよくして、やはり老子の話をするとして、第1章の中、一番最後にある「玄乃又玄、衆妙之門」に関して言いますと、気づいたから変わってゆくだとか、自分でも変えられるだとか、何かそんなものとは、どうも次元が違うようなのです。
なんとか言葉にすると、・・・絶望しても絶望しても絶望しきれないで遂に根源的肯定に辿り着いた証・・・と友田先生は書いているのですが、私の表現ですと、
・・・落ち込んで、落ちこんで、ずうっと落ち込んだまま、何をやったところで、もうどうする術もない、どう見ても道は八方ふさがり、先にはなんの希望も見えない、もうこうなったら覚悟は決まった!後は煮ろうが焼こうが、なんとでもしてくれ~と、のたうち回ったあと、ふっと、急に何か軽いものが降りてきて、そこから一気に視界が開ける・・・
こんな感じになりましょうか。
そして、この視界が開けたあたりを衆妙の門と呼んでもいいし、出口と呼んでもかまわない。そんなところに、行き着きました。

4回かかったけど、やっと第1章を最後まで読めて、ほっとしているところです。
振り返りもなんとか書けたし。はあ~
次回「老子を読む会」は平成22年3月6日、7日を予定しております。
たくさんの皆様のご参加をお待ちしております。