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エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

カラタチの花

2013年04月15日 | ポエム
カラタチの花が咲いている。
花の時期としては、もう遅いのかもしれない。


  からたちの花が咲いたよ。
  白い白い花が咲いたよ。

  からたちのとげはいたいよ。
  青い青い針のと げだよ。




カラタチの花が咲いた。
青い棘棘の隙間を埋めるように咲いたのである。

白い花が咲いたのである。



可憐で清楚な花である。







「カラタチの花の際立つ曇空」







虚空を切り裂く花である。


  からたちは畑の垣根よ。
  いつもいつもとほる道だよ。

  からたちも秋はみのるよ。
  まろいまろい金のたまだよ。

  からたちのそばで泣いたよ。
  みんなみんなやさしかつたよ。

  からたちの花が咲いたよ。
  白い白い花が咲いたよ。




花言葉は、「思い出」「温情」「泰平」である。

木は「悠揚とした」
花は「貞節」「相思相愛」とある。




  からたちのそばで泣いたよ。
  みんなみんなやさしかつたよ。

  からたちの花が咲いたよ。
  白い白い花が咲いたよ。


特にこのフレーズが好きである。
だが君よ!
ぼくは・・・なんと言ったら良いと云うのだ。

この花は、一人で眺めるべきではないのかも知れない。



        荒 野人

蒲公英を論ず

2013年04月14日 | ポエム
すでに蒲公英を論じたけれど、再び言及する。
関東蒲公英の、いたいけな開花にのめり込む感覚を覚えたのである。
感傷なのかもしれない。



朔太郎の懐いたペーソスとは別物である。

だがしかし、理不尽なまでの外来種の侵略は在来の関東蒲公英を駆逐しようとしている。
在来種は蒲公英と表記し、外来種はタンポポと表記したいのである。



せめて、在来種に敬意を表したいのである。
虚しいまでの心の揺らぎである。
そうした揺らぎは、なんとも徒労であるのかもしれない。
だがしかし、 在来種をいとおしみたいのである。



蒲公英の空間は、次元を異にする。
隠れ里にあるか!
と、思える密やかさである。



西洋タンポポである。
花期に総苞片が反り返っているのが外来種である。



反り返っていないのが在来種である。



在来種は背が低いとあるけれど、そうでもない。
スレンダー(slender)な美人である。







「蒲公英や染まる二人の内と外」







駆逐されないで踏ん張っている環境もある。
絶滅したという説もあるけれど、それは間違いである。

外来が在来をくちく出来ないとした地域では、交雑が起きている。
これもまた、駆逐の一手段であろうと思う。

とまれ、蒲公英の黄色は可憐であって、狂おしい程の清純さである。



        荒 野人

新緑を満喫する日々

2013年04月13日 | ポエム
ここ何日間で、ウグイスを聴き、燕の飛翔を見た。
それらの全てが、鮮やかな緑を背景としている。

正に、新緑を満喫するの候である。



深くもなく、浅くもない林を歩いた。
ほんの少しだけ向こうが人里である。







「緑立つ重なる空や隙間なく」



「囀の葉影を埋める五感研ぐ」







疲れた目に、ワクチンの注入である。
目が活き返るのである。



緑が滴り・・・。



重層的、多角的に緑が・・・。
重なる。



昨日は、空が抜けるようであった。
間もなく4月も中頃。
風はあくまでも爽やかである。

あと半月すれば、風が薫る。



思わず見上げた空に、裸木から装いも半ばの木々が見える。



朝方まで降った雨の残滓に、新緑が映っている。



鷺は、水場で戯れる。
遊んでいるのでは無い、戯れているのである。
因みに、後ろの黒いのは「川鵜」である。

この姿、小魚を獲っているのである。
雅な姿である。



       荒 野人

竹の秋

2013年04月12日 | ポエム
竹の秋である。



落合川の畔を散策しつつ、竹林に向かった。
この竹林は、人家に隣接しつつも静謐な空間を演出する。



竹の秋は、この季節しか見られない。
春の風物詩でもある。



いま、竹の葉は枯れて落葉になっていく。
竹落葉は、竹林に積っていく。
竹にとって良い肥やしになるのだろう。

竹林に踏み入ると、ふわふわとした足裏の感覚が優しい。







「葉擦れ降る土の匂いの竹の秋」







たかんな・・・の候でもある。
この竹林は、東久留米市の管理下にある。



良く手入れされていて、歩くのが楽しいのである。」
同時に、この竹林は湧水の最初の一滴を生み出す。



どうして、こんな流れになるのだろう?
そう思わせる流れであるけれど、湧水の場所からまだ数メートルの川である。



この奥が遊水地である。
ベンチに座って俳句を詠む・・・とはいかないのである。

清浄な空気に満たされ、その気分のままでは到底俳句は詠めない。
ぼくの限界であるのかもしれない。
だがしかし、感動を濾過し、醸成する。
その感動を上花として言葉に紡ぐ。

それもまた句作の手法である。



        荒 野人

春の小径は

2013年04月11日 | ポエム
いつもの散歩道であるけれど、春の小径は一際麗しい。
何より、風が良い。
色が良い。



視力があわあわとして、細める仕草が良い。
初老の婦人のその仕草は、なんとも艶やかである。

散歩日和と云う筋書きが浮かんで来たりする。







「春麗の散歩日和の小径行く」







小津安次郎が映像化すると、どう描くだろう?
キャメラを定点で回す。
ゆらゆらと大気が揺れ、径の向こうに異性の姿が霞んでいる。



そんな午後が突然脳裏を掠める。
スミレは簡易舗装の裂け目から咲き初めた。
あわあわとした春日和には、その逞しさが眩しすぎる。




         荒 野人