何らかの疾病に罹患しつつ、人生の終わりが近づいてきた時。
治療の限界を受け止め、家で生活を続けたいと思うことがあります。
一方で、人生の終わりが現実になってきたとき、何か治療を継続できないか、藁をもすがる気持ちで模索を続けることもあります。
それは自然な心の反応ですが・・・
そこから抜け出せなくなってしまう場合があります。
多額のお金をかけるような何かをしていると安心とか、病院の中で過ごしていれば安心とか・・・
つまり・・
「人生が、生活が、医療によって埋めつくされてしまう」ような場合があるのです。
そんな時、過去に書いた記事でもありますが、
アトゥール・ガワンデ(原井宏明訳)「死すべき定め」みすず書房,2016年初版
の中の言葉を思い出すのです。
「命が尽きて行く日々は治療によって乗っ取られてしまう。」
医療の目的は、健康や寿命を延ばしていくことではなく、人々が幸福に過ごすことができるようにすることにある・・
人生が医療によって埋めつくされてしまわないように・・
希望をもって人生を選択することができるように・・
介護現場での医療の限界に加え、コロナ禍で…。日々勉強しかありません。
>医療の目的は、健康や寿命を延ばしていくことではなく、人々が幸福に過ごすことができるようにすることにある
これも、まったくその通りだなと思いました。
大変印象に残りました。
介護は、療養の場であり、生活の中ですから、医療のように対峙することなく寄り添ってくださるありがたい存在です。
時にご家族との間に入り人生の選択を支えてくださることに感謝で一杯です。
温かなコメント、ありがとうございました!
aruga
まさに、そこなのです!
記事の言わんとするところを汲み取ってくださり、本当にありがとうございます!!
aruga
10年ほども寝たきりに近かった父を、昨年見送り、悲しみはもちろんありましたが、どこかホッとした自分がいました。
身体が不自由な以外、認知症もなく、命に係わる病気もありませんでした。
だからこそ、自力で何もできない父の長年の苦しみは、察するに余りあります。
父の姿を見て、生きているという事の意味を考えざるを得ませんでした。
生命を維持できている事と、生きている事って、違うのではないか、と。
今日の記事はとても心に刺さります。
いくら考えても、私にはわかりませんし、家族や友人が病気や介護になったら、寄り添うしかできません。
厳しく辛い状況でも、命ある事、生きている事に喜びを感じていられるようにしてあげることが出来ればいいのですが。
いずれにしても、医療現場や介護施設の方には、感謝しかありません。
生命と生きていることは違う、まさに、その通りだと思います。
お父様に聞いてみなくては分かりませんが、お父様にとって、動けなくなったことは悲しみだったかもしれませんが、不幸なことではなかったかもしれません。
何よりも、ご家族がいてくださったこと、生きる意味を一生懸命想い悩んでくれた娘さんがいたという事実、心に響きます。
頂いたコメント、胸打たれます。
ありがとうございました。
aruga
苦しみよりも楽しんで過越して生けれた人生、
私は人生楽しみたいなぁ〜時には苦労することもありますが、楽しい時も!
本当にそうですよね。
楽しみや苦労の中に会って、楽しみを楽しいと感じられることって、素敵なことだと思いました。
コメント、ありがとうございました!!
aruga
その頃、一番嫌だった言葉が「頑張れ」でした。なにに頑張るのか、その具体性のなさが嫌。頑張れとしか言いようがなかった見舞客の苦悩には考えが及ばず、ただただ苦しいだけの日々。若かったからこそ耐えられた気がします。今はもう駄目でしょう。健やかに穏やかに死にたいと切望します。まァ当面は生にしがみ付いて生きるでしょうけど。
医師になって初めて入局したのが腎外科という透析と移植外科の医局でした。35年以上前のことです。透析や移植の治療の選択肢が、どのような選択をするとしても辛さの緩和が保証されるべきだと私はそこを離れ、緩和医療の勉強を始めました。私の原点は癌ではなく、腎不全の緩和ケアでした。
当時のことを思い、頂いたコメントに思いを馳せると、言葉にならないような心の疼きを感じます。
ただ、それを越えた今があることをシェア下さったことに、救われた気持ちになります。
ここにコメント下さり、本当にありがとうございました。
原点を振り返らせてくださったコメント、大切にしていきたいと思います。
aruga