ども、まだ夜型の生活が続いている江戸です。そんな訳でこんな深夜に更新です。
さて、今日は先日前編を公開したネギま!の小説『今そこにある失われた日々』の後編です。しかし、字数制限に引っかかったので、一部の文章を削ったヴァージョンとなってます。スイマセンm(_ _)m。まあ、完全版を読めるのは同人誌を持っている人だけの特権と言うことで……。
では、前編より長いですが、楽しんでいただければ幸いです。
「……う」
エヴァは頭痛に顔をしかめながらベッドから上半身を起こした。
「良かった。目が覚めたのね、エヴァちゃん」
「マスター……」
エヴァが目覚めた事に明日菜と茶々丸は飛びあがらんばかりに喜んだ。このまま何日も目覚めない可能性も少なからずあったので、二人は正直気が気ではなかった。
しかし、エヴァの次なる一言が、二人の喜びを一気に凍り付かせた。
「……お姉ちゃん達、誰?」
明日菜の顔が面白いほど呆けたものとなる。茶々丸ですらその口元が引きつった。
「ここ……何処?」
不安げに周囲を見渡すエヴァの顔には、いつもの不敵な雰囲気は欠片も見あたらなかった。むしろ気弱で儚げな十歳の少女そのもののように見える。
「えっ、何? コレ新手の嫌がらせ? やめてよ冗談は」
明らかにいつもと雰囲気が違うエヴァの様子に明日菜は戸惑うが、この時はまだ冗談か何かだと彼女は思っていた。しかし――、
「パパとママは何処……?」
エヴァの瞳は涙に潤んでいき、ついにはそれがポロポロとこぼれ落ちる。
(あのエヴァちゃんが泣いているーっ!?)
さすがに明日菜も「これはマジだ……」と認めざるを得なかった。あのエヴァが例え演技だとしても人前で泣く事はまず有り得ないからだ。
「こっ、これ、どういう事、茶々丸さんっ!?」
「……どうやら頭を打った時の衝撃によって、記憶を司る脳の器官 『海馬』 にダメージを受けたようですね。これは俗に言う記憶喪失症というものでしょう……」
「記憶喪失……」
明日菜の顔がにわかに青くなった。彼女も当然の如くその名を聞いた事はある。漫画等でも、長期連載作品ならば一度はネタにすると言われるほど有名かつありふれた症状だ。しかし、一般人がその症状を直接目にする事は非常に希な事であり、それ故にどう対処したらいいのかまったく分からない。
「マスターの言動から推察するに、これまでに得た殆どの記憶を忘却して、幼児期に退行しているようです」
「き……記憶喪失なんて大事じゃないの! どうすればいいの?」
「マスターには再生能力があるので、遅くても数日中にはダメージを受けた器官と共に記憶も回復するはずです。特に問題はないでしょう」
「……そ、そうなの?」
どうやらエヴァの記憶はすぐに回復するようだ。しかし、記憶を失った所為で幼児期に退行してしまった彼女は、いきなり身に覚えのない環境に置かれた不安からか、先ほどから延々と泣き続けている。このまま放っておける様な雰囲気ではなかった。
「あ、あのね、エヴァちゃんのパパとママは用事があってしばらく帰ってこれないの。そのかわり、エヴァちゃんが寂しくない様に遊んでやってくれ……ってパパとママに私達が頼まれているんだ。たくさん遊んであげるからもう泣きやんで、ね?」
「……」
今のエヴァにしてみれば、明日菜達は見ず知らずの年上のお姉さん達で、しかも異人なものだから、かなり警戒心を持っているだろう。しかしそれでも、彼女はやや不承不承という感じながらもコクリと頷いた。
「うっ……可愛いわね」
普段のエヴァならば絶対に有り得ない素直な態度に、明日菜は思わず感動した。元賞金首で凶悪な人相をしているエヴァだが、今は幼児退行した為に邪気が抜けて、いつもの数倍、いや十数倍は可愛く見える。
最近はネギの面倒を見ている所為でそうでもなくなって来たが、元来子供嫌いである明日菜でさえも、今のエヴァは思わず頭をグリグリとなで回したり、ギュッと抱きしめたりしたくなる様な愛らしさだ。
「しかし、いいのですか? 明日菜さんにも予定があるのでは?」
「んー、でもエヴァちゃんがこうなったのは私の所為だし。最後まで責任取るよ」
茶々丸の問いに明日菜は苦笑して答える。今日と明日は土日で学校が休みだからまだいい。だが、休みが明けて記憶を失ったままのエヴァを学校に連れて行く事は、色々と不都合があるのは目に見えていた。出来ればそんな面倒は避けたかったが、登校地獄の呪いの影響で学校を休む訳にはいかない。
だから今日と明日、エヴァの面倒を見る事によって、少しでも早く彼女の記憶が回復すればいいと明日菜は思っていた。
「とにかくエヴァちゃんのやりたい事に付き合ってあげるわよ。あ……それより頭痛くない? あなた頭を打ってケガしていたのよ? 大丈夫、エヴァちゃん?」
そんな明日菜の問いに、エヴァは少し恥ずかしそうに、
「……キティ」
そうぽそりと答えた。
「ハイ?」
「……パパとママは私の事、キティって呼ぶから……エヴァって呼ばれるの変な感じがする……」
「キティ?」
「マスターの名前のA・Kは、アタナシア・キティの略です。明日菜さん」
「うっそ!? 初耳よそれ!」
初めて知らされたエヴァのフルネームに明日菜は激しい違和感をおぼえた。なんとなくエヴァのイメージには似合わない、可愛らしい響きだったからだ。まあ、だからこそエヴァも今まで誰にも明かさなかったのかも知れないが。
(ん~、でも今のエヴァちゃんになら似合っていると言えば似合っているかな?)
「分かったわ。あ、私は神楽坂明日菜。アスナでいいわ。それと、こちらは茶々丸さんよ。よろしくね、キティちゃん。で、頭は痛くないの?」
「うん。少し痛いけど大丈夫だよ、アスナお姉ちゃん」
(うっ……)
笑顔で応じるエヴァ。その普段の彼女からは有り得ない表情に、明日菜は一瞬身震いしそうになったが、まるで天使の様な愛らしいその笑顔に呑まれてしまった。
次の瞬間、思わずエヴァの頭を撫でている自分を発見して、明日菜は困惑が混じった複雑な笑顔を浮かべた。
(……私って、子供嫌いの筈だったんだけどなぁ~)
それから、明日菜と茶々丸とエヴァ、この三名にとって新鮮な時間が始まった。
記憶を失ったエヴァにしてみれば、長年住み慣れたはずの家の中も初めて見る物ばかりだった。沢山ある人形達を見て目を輝かせたり、人形達の中に混じっていたチャチャゼロが突然話しかけてきた事に酷く脅えたりと、いつものエヴァならば絶対に有り得ない反応のオンパレードである。そしてそれは見ている明日菜と茶々丸にとっても新鮮な事この上ない光景だった。
しかしその一方で、やはり彼女はあのエヴァなのだという事を再確認出来る部分もある。例えば彼女は日本茶を好んだ。記憶を失った彼女にしてみれば初めての味である筈なのだが、茶々丸に出された日本茶を彼女は美味しそうに飲んだ。おそらくこれは、エヴァが茶道部に所属している事が影響しているのだろうと思われた。エヴァにとって、日本茶の味はかなり古くから慣れ親しんだものであり、だからこそ、舌がその味をしっかりと覚えていたのだろう。
それならばと、次に明日菜と茶々丸はエヴァに囲碁を勧めてみた。これもエヴァが囲碁部に所属しているからで、囲碁を打つ事によって何かを思い出せるのではないかと考えての事だ。そして実際の所、記憶を失っているはずのエヴァは、囲碁のルールを飲み込むのが異様に早かった。
囲碁は他の類似したゲームである将棋やオセロ、チェス等と比べると高度……といえば少々語弊があるかも知れないが、これらのゲームの中でも初心者にとって、最も取っつきにくいの物である事は間違いないだろう。
まず多くの初心者がそのルールを誤解している事が多い。ありがちなのは「相手の碁石を多く取った方が勝ち」というものだ。確かに碁石の数によって多少の有利、不利はあるだろう。
しかし、囲碁で本当に重要なのは「碁石によって囲った陣地の広さ」である。この陣地の広さが勝敗を分けるのだが、その確保が難しい。ただ碁石で陣地を囲めば良いのではなく、その中に敵が侵入して来られない様に囲まなければ、陣地を敵に奪われてしまう事になりかねず、陣地として成立しない。
しかし、素人にしてみれば陣地を囲むという作業ですら困難な事であり、ましてや敵との陣取り合戦の攻防を繰り広げる事などまず不可能だ。ハッキリ言って多少ルールを知っている程度では勝つどころか、まともな勝負として成立させる事すら難しい。
だが、記憶を失っている筈のエヴァは、茶々丸に基本的なルールを教えて貰っただけでかなりの部分を理解したようであった。一緒に教えて貰っていた明日菜が全くルールを飲み込めていない事から見ても、異常とも言える理解の早さだ。やはり幾度と無く打ってきた棋譜が、彼女の身体に染み込んでいるのだろう。無論、頭の出来の差が大きい事も間違いないけれど。
ともかく、囲碁に対しての知識量では、ほぼ互角であるはずのエヴァと明日菜であったが、実力のほどは歴然としていた。
「もぉ~、アスナお姉ちゃん弱いよぉ~」
「つーか、全然ルールが理解出来ないのよ。強さ云々以前の問題だわ……」
「あ……明日菜さん。アタリです」
「えっ、アタリって何!?」
「その場所にマスターの石を打たれると、明日菜さんの石が取られます。五つ程一気に……。マスターは既に気づいているはずですので、進言致しました」
「うん、気づいてるよー。次で石取っちゃうよー」
「ど、どうすればいいの!?」
「……もう既にどうしようもない状況になっているようです。そこは諦めて、他の所に石を打った方が得策かと……。どの道、明日菜さんの負けはもう確定でしょうが」
「駄目じゃんっ!?」
「じゃあ、明日菜お姉ちゃんの投了って事でいーよねー?」
こんな具合に、明日菜は茶々丸の助言を受けても、まったくエヴァには歯が立たないのだ。おかげで慣れない事に頭を使った明日菜は、知恵熱を出しそうだった。
しかし、エヴァが随分と楽しそうなので、それを見て明日菜は「ま、いいか」とも思う。正直、こんなに楽しそうなエヴァの顔を明日菜は見た事がない。もう同じクラスに通うのも三年目のクラスメートなのに一度もだ。
(エヴァちゃんってば、私達といてやっぱり楽しくなかったのかな? いい歳しているから、素直にみんなの中に溶け込んで楽しむ事が出来なかったのかな……?)
今は記憶を失った所為で色々なしがらみから解放されているのか、無邪気に笑っているエヴァだが、記憶が元に戻ったら彼女はまた自分達との間に壁を作ってしまうのだろうか――そう思うと明日菜は微かすかな寂しさを覚えた。
陽は既に沈み、夜の闇も深まりつつある。明日菜は結局、エヴァの家に泊まり込んで彼女の世話をする事にした。
「そう……。じゃあ、留守をお願いね」
明日菜は携帯電話の電源を切って、ホッと溜息をつく。
通話相手の木乃香の話では、ネギは修行の疲れからかまだ眠っているらしい。まあ、それはそれで好都合だった。もしエヴァの身に起こっている事を彼が知れば、すぐさま見舞いに駆けつけて来るだろう。
だが、明日菜は修行で疲れている筈のネギにその様な労力を使わせたくは無かったし、そもそも今回の騒ぎの顛末を彼に知られるのはなんだか体裁が悪くて嫌だった。
だから明日菜は、ネギへの詳しい説明を明日へと先送りした。それ迄にエヴァが回復してくれればネギに無用な心配をかけずに済むし、あわよくば色々と有耶無耶にしてやり過ごす事も出来るかも知れないと考えたのだ。
しかし、明日の事よりも、まずは今日を無事に乗り切らなければならない。明日菜はグッタリとして壁により掛かった。
(子供の相手って本当に大変よねー……)
明日菜はその事を大いに実感として噛みしめていた。彼女がいつも一緒にいるネギは、たまに大きなボケをやらかす事はあっても、基本的には大人しくて我が儘も言わず、何よりも真面目な性格なので、非常に手のかからない楽な子供である。まあ、中学校の教員をしているのだからそれが当たり前ではあるが。
一方、記憶を失っている今のエヴァは、まったく只の子供と化している。基本的には頭が良い子ではあるのだが、集中力に乏しくて落ち着きがない。また、物事の好き嫌いも激しく我が儘でもある。とにかく、普通の児童程度には制御が困難で手がかかった。
そんな子供の相手をほぼ半日も続けてきたのである。公園に遊びに行ったり、図書館に絵本を借りに行ったり、テレビゲームに興じたり……等々と、イベントが目白押しだった。さすがに遊んでばかりいたとはいえ、疲れない訳が無い。
いくら体力には自身のある明日菜でも、そろそろ精神的には限界であった。それでも、本日の活動ノルマも残り僅かに一つという所まで来ていた。あとはエヴァを寝かしつけるだけである。
時計の針はもうすぐ九時をまわろうとしていた。今時の子供にとってはまだまだ宵の口だが、一昔前はこのくらいの時間帯に子供を寝かしつけるのは普通だった。ましてや、エヴァがリアルに子供だった時代では、照明設備が発達していない所為で日暮れとともに就寝し、夜明けとともに起床するという生活が当たり前だったはずだ。だからなのか、エヴァは既に眠気を訴えてきていた。
まあ、就寝が早いのは明日菜にとっても有難い事ではあった。彼女も明日の早朝には新聞配達のアルバイトがあるからだ。
「お姉ちゃ~ん。パジャマに着替えたよ~」
エヴァがトテトテと明日菜に駆け寄って来る。これから彼女が寝付くまで、童話を読んであげる約束なのだ。
「じゃあ、ベッドに入ってね、キティ。今、本を読んで上げるから」
「ハ~イ」
(あ~可愛いなぁ……)
明日菜は素直に応じるエヴァの姿にいちいち感動しつつ、朗読の準備に取り掛かった。本当は本を読むのは苦手なのだが、エヴァが本当に楽しみにしている様なので、「まあ、頑張ってみようかな」、とも思う。もっとも、
(とりあえず、私が先に眠らない様に気を付けよう……)
そんな懸念事項もあったりするのだが。明日菜は本を読むと本気で眠たくなる質なので、かなりの苦戦は必至であった。
「昔々あるところに……」
明日菜はベッドの脇の椅子に腰をかけて朗読を開始した。その読み方はいまいち抑揚が無く、滑舌も良いとも言い難いが、それでもエヴァは静かにそれを聞いていた。それだけ話に食いついてきている証拠だろうと思うと、明日菜も不思議と頑張れた。
茶々丸は二階へと毛布を運ぶ為に階段を登っていく。明日菜がエヴァを寝かしつける事に手間取る様ならば、彼女にかけてあげようと思ったのだ。
しかし、茶々丸が階段を登り切る寸前に、
「……ふ~、やっと寝たわ……」
そんな明日菜の声が聞こえてきた。茶々丸が顔だけをだして二階の様子を覗いてみると、明日菜はクテっとベッドに頭を預けいた。エヴァが寝付くまでにそれほど長時間かかった訳ではないが、それでもやはり慣れない事をして疲れたのだろう。そんな明日菜に反して、エヴァは安らかな寝顔で眠っている。寝顔だけ見ると天使の様だった。
(ホント……これがあのエヴァちゃんだなんて信じられないな……。この子にもこんな時代があったんだ……。
でも、考えてみたら、こんな小さいのに吸血鬼化しちゃったんだよね。きっと、周りの人から怖がられたりして……随分と寂しい想いをして来たんだろうなぁ……)
そう思うと、明日菜は何だか胸が締め付けられる様な感覚を感じた。それは彼女の想像にしか過ぎないが、当たらずも遠からずだろう。だとするのならば、エヴァの心の一部は彼女にも理解し共感する事が出来る気がした。
「ねぇ……。私、キティのお父さんとお母さんの代わり、ちゃんと出来ていたかな? 私にも親がいないから……どうやればいいかなんてよく分からなかったけど……。少しでもキティの寂しさを紛らわせる事が出来ていたのなら……嬉しいなぁ」
明日菜はエヴァの寝顔にしみじみとそう囁いた。
(……明日菜さん)
茶々丸はなんとなく明日菜の独り言を聞かなかった事にして、静かに階段を下りていく。普段はあまり表情が無い彼女の口元には、この時は確かに小さな微笑みが浮かんでいた。
「……う」
エヴァは頭痛に顔をしかめながらベッドから上半身を起こした。
カーテンの隙間から光が射し込んで来ており、外から小鳥の囀りが聞こえてくる。どうやら早朝の様であった。
(……なんか前にも似た様な事があったな……)
エヴァの視線の先では、ベッドにもたれかかる様にして明日菜が眠っていた。茶々丸が後からかけたのか、肩から毛布を羽織っている。それが温かいのか、彼女は気持ちよさそうに寝息を立てていた。それを見て、エヴァは困惑の表情を浮かべた。
エヴァには何故こういう状況になっているのかが不可解だった。確か明日菜が家に怒鳴り込んできた時の事まではハッキリと憶えている。しかし、その後の記憶がどうにも朧気だった。
状況的に見て、その後乱闘騒ぎとなり、何かの拍子で意識を失った自分を明日菜が看病をしてくれたのではないか……という事までは推測出来る。だが、それはエヴァにとって、なんとなく面白くない状況だった。魔法界の裏社会で「闇の福音」と呼ばれ恐れられていた彼女にとっては、あまりにも情けない話だ。
「……オイ、起きろ、神楽坂明日菜!」
エヴァはムスッとしたしかめっ面をしながら、明日菜の頭を軽く小突いた。
「ん……あ いけない、あのまま寝ちゃったんだ!?」
明日菜は、ガバリと跳ね起きた。そして、エヴァの姿を目にとめて、
「あ……もう起きてたの、キティ?」
と、優しげに微笑む。
「っな……!?」
長い間誰からも呼ばれた事のないその名を、いきなり呼ばれたエヴァの顔は瞬時に赤く染まった。しかし、まだ寝惚けているのか、そんなエヴァの様子を明日菜はさほど気にせず、
「頭の傷どう? あ……もう消えているわね。これで大丈夫かしら? 良かったね、キティ」
と、エヴァの頭をクリクリとなで回している。
「な、なっ、な……」
「……ん?」
ここに至って、明日菜はようやく小刻みに震えているエヴァの異変に気付いた。しかし、時既に遅し。
「何を馴れ馴れしくしておるのだ、貴様は~っっ!?」
「きゃあああ~っ!? 元に戻ってる~っ!?」
突然暴発したエヴァの怒りに明日菜は度肝を抜かれた。が、エヴァの暴発も取り敢えずはそこで終わりだ。彼女も状況がつかめていないので、怒りよりも困惑の方が大きいらしい。
「ハアハア……。元に戻っただと? どういう意味だ?」
「あ、あのね、エヴァちゃん頭打って記憶無くしていたのよ。だから子供時代に戻っちゃって……その……」
(……そ、それで……キティか……)
しどろもどろな明日菜の説明を聞きながらエヴァは頭を抱えたくなった。自分でも十歳より前の事は実のところよく憶えていないのだが、なんだか一番見られてはならない自身の恥部を、一番見られてはならない者に見られてしまったような様な気分だった。
(こ……こいつ……口封じに消すか?)
一瞬そんな凶暴な考えも頭に浮かんだが、それ以上に今は恥ずかしさで悶絶しそうなのでそれどころではない。
結局、エヴァが出来た事は、その場凌ぎに悪態を付く事だけだった。
「ふ、ふん! それで私の看病の為に一晩中付き添っていたというのか。まったく、あのぼーや同様に貴様は甘すぎる。反吐が出るわ」
「な、なによぉ、そんな言い方無いでしょう!?」
エヴァの物言いに明日菜がにわかに気色けしきばむ。だが、
「大体、さっきの馴れ馴れしい態度はなんだ!? 保護者面しおって! ぼーやだけでは飽きたらず、私の母親にでもなったつもりか、貴様は!?」
「あ……」
明日菜は急に大人しくなった。それが不思議でエヴァは怪訝な表情を浮かべる。それに反して、明日菜の表情はなんとなく嬉しそうだ。
「……お母さんみたいだ……って思ってくれたんだ」
「ぬ……? この前は確か……これで怒ったような気がしたが……?」
「だって、アレは貶し言葉でしょ? でも、今のは褒め言葉。違う?」
「ぬ……」
明日菜にそう指摘されて、エヴァは急になにも言えなくなった。何故かそう言われてみればそんな気がしないでもなかったからだ。
「……って、ああっ もう新聞配達にいかなくちゃっ! 私はもうこの辺で失礼させてもらうわ。茶々丸さ~んっ、エヴァちゃん元に戻ったからもう帰るねーっ」
新聞配達の事を思いだして、明日菜はバタバタと階下へ降りていく。
「ちっ、騒々しい奴だ」
エヴァはそう毒づきつつも、どことなく名残惜しそうな表情で明日菜の後を追った。
「じゃあ、また明日学校でね。エヴァちゃん。茶々丸さん」
「さようなら明日菜さん」
別れの挨拶も手短に、明日菜は物凄いスピード駆けていった。
「ふん……本当に忙しない……」
玄関先で茶々丸と一緒に明日菜を見送ったエヴァは、すぐに家の中に戻らず、何故かそのまま立ちつくしていた。そして茶々丸も、主人に付き合っているつもりなのか、茫洋として立ちつくしている。
二人はそのまま暫くの間無言でいたが、やがてエヴァは小さく呟つぶやいた。
「神楽坂明日菜か……不思議な奴だな。なんだか遠い昔にも出会った事がある様な気がする……」
それは、エヴァが幼児退行してしまった時の経験が過去の記憶と混同してしまった所為なのか、それとも過去に明日菜と似た人物と本当に出会っていた為なのか、おそらくは前者の要素が強いと思われるが、実際の所は定かではなかった。しかし彼女が明日菜に対して何故か懐かしい様な感覚を感じている事だけは確かだ。
「……マスターがそう思うのなら、きっと会っているのでしょう」
と、茶々丸はエヴァの言葉に同意する。そして心なしか期待に満ちた表情で、
「ところで……私とは遠い昔に会った事がある様には感じないのですか、マスター?」
茶々丸だって記憶を失っていたエヴァの面倒を見ていた。それならば明日菜と同様に、エヴァの記憶になんらかの影響を与えていてもいい筈だ。そして、エヴァにとって以前よりも特別な存在になれればいいと彼女は思っていた。
正直、明日菜とエヴァのケンカ友達の様な関係が茶々丸には少し羨うらやまましい。もちろんエヴァとの主従関係は決して崩れる事はないのかも知れないが、だからこそせめてもう少し親密な関係になりたいというのが彼女の希望であり期待だった。
しかし、エヴァはあっさりこう言ってのけたのである。
「む? 昔に会った事があるもなにも、お前は最近作られたばかりだろう?」
「……………」
その瞬間、茶々丸の只でさえあまり動きが見られな顔の表情は、完全に停止してしまったという。
――その後、エヴァは茶々丸から三日間も口を利きいて貰えなくなったどころか、一切の家事さえも放棄されてしまい、茶々丸の有難味を心底思い知ったというが、それはまた別の話であった。
おわり
いかがだったでしょうか? 感想などいただけると嬉しいです。
じゃ、今日はここまで。
さて、今日は先日前編を公開したネギま!の小説『今そこにある失われた日々』の後編です。しかし、字数制限に引っかかったので、一部の文章を削ったヴァージョンとなってます。スイマセンm(_ _)m。まあ、完全版を読めるのは同人誌を持っている人だけの特権と言うことで……。
では、前編より長いですが、楽しんでいただければ幸いです。
「……う」
エヴァは頭痛に顔をしかめながらベッドから上半身を起こした。
「良かった。目が覚めたのね、エヴァちゃん」
「マスター……」
エヴァが目覚めた事に明日菜と茶々丸は飛びあがらんばかりに喜んだ。このまま何日も目覚めない可能性も少なからずあったので、二人は正直気が気ではなかった。
しかし、エヴァの次なる一言が、二人の喜びを一気に凍り付かせた。
「……お姉ちゃん達、誰?」
明日菜の顔が面白いほど呆けたものとなる。茶々丸ですらその口元が引きつった。
「ここ……何処?」
不安げに周囲を見渡すエヴァの顔には、いつもの不敵な雰囲気は欠片も見あたらなかった。むしろ気弱で儚げな十歳の少女そのもののように見える。
「えっ、何? コレ新手の嫌がらせ? やめてよ冗談は」
明らかにいつもと雰囲気が違うエヴァの様子に明日菜は戸惑うが、この時はまだ冗談か何かだと彼女は思っていた。しかし――、
「パパとママは何処……?」
エヴァの瞳は涙に潤んでいき、ついにはそれがポロポロとこぼれ落ちる。
(あのエヴァちゃんが泣いているーっ!?)
さすがに明日菜も「これはマジだ……」と認めざるを得なかった。あのエヴァが例え演技だとしても人前で泣く事はまず有り得ないからだ。
「こっ、これ、どういう事、茶々丸さんっ!?」
「……どうやら頭を打った時の衝撃によって、記憶を司る脳の器官 『海馬』 にダメージを受けたようですね。これは俗に言う記憶喪失症というものでしょう……」
「記憶喪失……」
明日菜の顔がにわかに青くなった。彼女も当然の如くその名を聞いた事はある。漫画等でも、長期連載作品ならば一度はネタにすると言われるほど有名かつありふれた症状だ。しかし、一般人がその症状を直接目にする事は非常に希な事であり、それ故にどう対処したらいいのかまったく分からない。
「マスターの言動から推察するに、これまでに得た殆どの記憶を忘却して、幼児期に退行しているようです」
「き……記憶喪失なんて大事じゃないの! どうすればいいの?」
「マスターには再生能力があるので、遅くても数日中にはダメージを受けた器官と共に記憶も回復するはずです。特に問題はないでしょう」
「……そ、そうなの?」
どうやらエヴァの記憶はすぐに回復するようだ。しかし、記憶を失った所為で幼児期に退行してしまった彼女は、いきなり身に覚えのない環境に置かれた不安からか、先ほどから延々と泣き続けている。このまま放っておける様な雰囲気ではなかった。
「あ、あのね、エヴァちゃんのパパとママは用事があってしばらく帰ってこれないの。そのかわり、エヴァちゃんが寂しくない様に遊んでやってくれ……ってパパとママに私達が頼まれているんだ。たくさん遊んであげるからもう泣きやんで、ね?」
「……」
今のエヴァにしてみれば、明日菜達は見ず知らずの年上のお姉さん達で、しかも異人なものだから、かなり警戒心を持っているだろう。しかしそれでも、彼女はやや不承不承という感じながらもコクリと頷いた。
「うっ……可愛いわね」
普段のエヴァならば絶対に有り得ない素直な態度に、明日菜は思わず感動した。元賞金首で凶悪な人相をしているエヴァだが、今は幼児退行した為に邪気が抜けて、いつもの数倍、いや十数倍は可愛く見える。
最近はネギの面倒を見ている所為でそうでもなくなって来たが、元来子供嫌いである明日菜でさえも、今のエヴァは思わず頭をグリグリとなで回したり、ギュッと抱きしめたりしたくなる様な愛らしさだ。
「しかし、いいのですか? 明日菜さんにも予定があるのでは?」
「んー、でもエヴァちゃんがこうなったのは私の所為だし。最後まで責任取るよ」
茶々丸の問いに明日菜は苦笑して答える。今日と明日は土日で学校が休みだからまだいい。だが、休みが明けて記憶を失ったままのエヴァを学校に連れて行く事は、色々と不都合があるのは目に見えていた。出来ればそんな面倒は避けたかったが、登校地獄の呪いの影響で学校を休む訳にはいかない。
だから今日と明日、エヴァの面倒を見る事によって、少しでも早く彼女の記憶が回復すればいいと明日菜は思っていた。
「とにかくエヴァちゃんのやりたい事に付き合ってあげるわよ。あ……それより頭痛くない? あなた頭を打ってケガしていたのよ? 大丈夫、エヴァちゃん?」
そんな明日菜の問いに、エヴァは少し恥ずかしそうに、
「……キティ」
そうぽそりと答えた。
「ハイ?」
「……パパとママは私の事、キティって呼ぶから……エヴァって呼ばれるの変な感じがする……」
「キティ?」
「マスターの名前のA・Kは、アタナシア・キティの略です。明日菜さん」
「うっそ!? 初耳よそれ!」
初めて知らされたエヴァのフルネームに明日菜は激しい違和感をおぼえた。なんとなくエヴァのイメージには似合わない、可愛らしい響きだったからだ。まあ、だからこそエヴァも今まで誰にも明かさなかったのかも知れないが。
(ん~、でも今のエヴァちゃんになら似合っていると言えば似合っているかな?)
「分かったわ。あ、私は神楽坂明日菜。アスナでいいわ。それと、こちらは茶々丸さんよ。よろしくね、キティちゃん。で、頭は痛くないの?」
「うん。少し痛いけど大丈夫だよ、アスナお姉ちゃん」
(うっ……)
笑顔で応じるエヴァ。その普段の彼女からは有り得ない表情に、明日菜は一瞬身震いしそうになったが、まるで天使の様な愛らしいその笑顔に呑まれてしまった。
次の瞬間、思わずエヴァの頭を撫でている自分を発見して、明日菜は困惑が混じった複雑な笑顔を浮かべた。
(……私って、子供嫌いの筈だったんだけどなぁ~)
それから、明日菜と茶々丸とエヴァ、この三名にとって新鮮な時間が始まった。
記憶を失ったエヴァにしてみれば、長年住み慣れたはずの家の中も初めて見る物ばかりだった。沢山ある人形達を見て目を輝かせたり、人形達の中に混じっていたチャチャゼロが突然話しかけてきた事に酷く脅えたりと、いつものエヴァならば絶対に有り得ない反応のオンパレードである。そしてそれは見ている明日菜と茶々丸にとっても新鮮な事この上ない光景だった。
しかしその一方で、やはり彼女はあのエヴァなのだという事を再確認出来る部分もある。例えば彼女は日本茶を好んだ。記憶を失った彼女にしてみれば初めての味である筈なのだが、茶々丸に出された日本茶を彼女は美味しそうに飲んだ。おそらくこれは、エヴァが茶道部に所属している事が影響しているのだろうと思われた。エヴァにとって、日本茶の味はかなり古くから慣れ親しんだものであり、だからこそ、舌がその味をしっかりと覚えていたのだろう。
それならばと、次に明日菜と茶々丸はエヴァに囲碁を勧めてみた。これもエヴァが囲碁部に所属しているからで、囲碁を打つ事によって何かを思い出せるのではないかと考えての事だ。そして実際の所、記憶を失っているはずのエヴァは、囲碁のルールを飲み込むのが異様に早かった。
囲碁は他の類似したゲームである将棋やオセロ、チェス等と比べると高度……といえば少々語弊があるかも知れないが、これらのゲームの中でも初心者にとって、最も取っつきにくいの物である事は間違いないだろう。
まず多くの初心者がそのルールを誤解している事が多い。ありがちなのは「相手の碁石を多く取った方が勝ち」というものだ。確かに碁石の数によって多少の有利、不利はあるだろう。
しかし、囲碁で本当に重要なのは「碁石によって囲った陣地の広さ」である。この陣地の広さが勝敗を分けるのだが、その確保が難しい。ただ碁石で陣地を囲めば良いのではなく、その中に敵が侵入して来られない様に囲まなければ、陣地を敵に奪われてしまう事になりかねず、陣地として成立しない。
しかし、素人にしてみれば陣地を囲むという作業ですら困難な事であり、ましてや敵との陣取り合戦の攻防を繰り広げる事などまず不可能だ。ハッキリ言って多少ルールを知っている程度では勝つどころか、まともな勝負として成立させる事すら難しい。
だが、記憶を失っている筈のエヴァは、茶々丸に基本的なルールを教えて貰っただけでかなりの部分を理解したようであった。一緒に教えて貰っていた明日菜が全くルールを飲み込めていない事から見ても、異常とも言える理解の早さだ。やはり幾度と無く打ってきた棋譜が、彼女の身体に染み込んでいるのだろう。無論、頭の出来の差が大きい事も間違いないけれど。
ともかく、囲碁に対しての知識量では、ほぼ互角であるはずのエヴァと明日菜であったが、実力のほどは歴然としていた。
「もぉ~、アスナお姉ちゃん弱いよぉ~」
「つーか、全然ルールが理解出来ないのよ。強さ云々以前の問題だわ……」
「あ……明日菜さん。アタリです」
「えっ、アタリって何!?」
「その場所にマスターの石を打たれると、明日菜さんの石が取られます。五つ程一気に……。マスターは既に気づいているはずですので、進言致しました」
「うん、気づいてるよー。次で石取っちゃうよー」
「ど、どうすればいいの!?」
「……もう既にどうしようもない状況になっているようです。そこは諦めて、他の所に石を打った方が得策かと……。どの道、明日菜さんの負けはもう確定でしょうが」
「駄目じゃんっ!?」
「じゃあ、明日菜お姉ちゃんの投了って事でいーよねー?」
こんな具合に、明日菜は茶々丸の助言を受けても、まったくエヴァには歯が立たないのだ。おかげで慣れない事に頭を使った明日菜は、知恵熱を出しそうだった。
しかし、エヴァが随分と楽しそうなので、それを見て明日菜は「ま、いいか」とも思う。正直、こんなに楽しそうなエヴァの顔を明日菜は見た事がない。もう同じクラスに通うのも三年目のクラスメートなのに一度もだ。
(エヴァちゃんってば、私達といてやっぱり楽しくなかったのかな? いい歳しているから、素直にみんなの中に溶け込んで楽しむ事が出来なかったのかな……?)
今は記憶を失った所為で色々なしがらみから解放されているのか、無邪気に笑っているエヴァだが、記憶が元に戻ったら彼女はまた自分達との間に壁を作ってしまうのだろうか――そう思うと明日菜は微かすかな寂しさを覚えた。
陽は既に沈み、夜の闇も深まりつつある。明日菜は結局、エヴァの家に泊まり込んで彼女の世話をする事にした。
「そう……。じゃあ、留守をお願いね」
明日菜は携帯電話の電源を切って、ホッと溜息をつく。
通話相手の木乃香の話では、ネギは修行の疲れからかまだ眠っているらしい。まあ、それはそれで好都合だった。もしエヴァの身に起こっている事を彼が知れば、すぐさま見舞いに駆けつけて来るだろう。
だが、明日菜は修行で疲れている筈のネギにその様な労力を使わせたくは無かったし、そもそも今回の騒ぎの顛末を彼に知られるのはなんだか体裁が悪くて嫌だった。
だから明日菜は、ネギへの詳しい説明を明日へと先送りした。それ迄にエヴァが回復してくれればネギに無用な心配をかけずに済むし、あわよくば色々と有耶無耶にしてやり過ごす事も出来るかも知れないと考えたのだ。
しかし、明日の事よりも、まずは今日を無事に乗り切らなければならない。明日菜はグッタリとして壁により掛かった。
(子供の相手って本当に大変よねー……)
明日菜はその事を大いに実感として噛みしめていた。彼女がいつも一緒にいるネギは、たまに大きなボケをやらかす事はあっても、基本的には大人しくて我が儘も言わず、何よりも真面目な性格なので、非常に手のかからない楽な子供である。まあ、中学校の教員をしているのだからそれが当たり前ではあるが。
一方、記憶を失っている今のエヴァは、まったく只の子供と化している。基本的には頭が良い子ではあるのだが、集中力に乏しくて落ち着きがない。また、物事の好き嫌いも激しく我が儘でもある。とにかく、普通の児童程度には制御が困難で手がかかった。
そんな子供の相手をほぼ半日も続けてきたのである。公園に遊びに行ったり、図書館に絵本を借りに行ったり、テレビゲームに興じたり……等々と、イベントが目白押しだった。さすがに遊んでばかりいたとはいえ、疲れない訳が無い。
いくら体力には自身のある明日菜でも、そろそろ精神的には限界であった。それでも、本日の活動ノルマも残り僅かに一つという所まで来ていた。あとはエヴァを寝かしつけるだけである。
時計の針はもうすぐ九時をまわろうとしていた。今時の子供にとってはまだまだ宵の口だが、一昔前はこのくらいの時間帯に子供を寝かしつけるのは普通だった。ましてや、エヴァがリアルに子供だった時代では、照明設備が発達していない所為で日暮れとともに就寝し、夜明けとともに起床するという生活が当たり前だったはずだ。だからなのか、エヴァは既に眠気を訴えてきていた。
まあ、就寝が早いのは明日菜にとっても有難い事ではあった。彼女も明日の早朝には新聞配達のアルバイトがあるからだ。
「お姉ちゃ~ん。パジャマに着替えたよ~」
エヴァがトテトテと明日菜に駆け寄って来る。これから彼女が寝付くまで、童話を読んであげる約束なのだ。
「じゃあ、ベッドに入ってね、キティ。今、本を読んで上げるから」
「ハ~イ」
(あ~可愛いなぁ……)
明日菜は素直に応じるエヴァの姿にいちいち感動しつつ、朗読の準備に取り掛かった。本当は本を読むのは苦手なのだが、エヴァが本当に楽しみにしている様なので、「まあ、頑張ってみようかな」、とも思う。もっとも、
(とりあえず、私が先に眠らない様に気を付けよう……)
そんな懸念事項もあったりするのだが。明日菜は本を読むと本気で眠たくなる質なので、かなりの苦戦は必至であった。
「昔々あるところに……」
明日菜はベッドの脇の椅子に腰をかけて朗読を開始した。その読み方はいまいち抑揚が無く、滑舌も良いとも言い難いが、それでもエヴァは静かにそれを聞いていた。それだけ話に食いついてきている証拠だろうと思うと、明日菜も不思議と頑張れた。
茶々丸は二階へと毛布を運ぶ為に階段を登っていく。明日菜がエヴァを寝かしつける事に手間取る様ならば、彼女にかけてあげようと思ったのだ。
しかし、茶々丸が階段を登り切る寸前に、
「……ふ~、やっと寝たわ……」
そんな明日菜の声が聞こえてきた。茶々丸が顔だけをだして二階の様子を覗いてみると、明日菜はクテっとベッドに頭を預けいた。エヴァが寝付くまでにそれほど長時間かかった訳ではないが、それでもやはり慣れない事をして疲れたのだろう。そんな明日菜に反して、エヴァは安らかな寝顔で眠っている。寝顔だけ見ると天使の様だった。
(ホント……これがあのエヴァちゃんだなんて信じられないな……。この子にもこんな時代があったんだ……。
でも、考えてみたら、こんな小さいのに吸血鬼化しちゃったんだよね。きっと、周りの人から怖がられたりして……随分と寂しい想いをして来たんだろうなぁ……)
そう思うと、明日菜は何だか胸が締め付けられる様な感覚を感じた。それは彼女の想像にしか過ぎないが、当たらずも遠からずだろう。だとするのならば、エヴァの心の一部は彼女にも理解し共感する事が出来る気がした。
「ねぇ……。私、キティのお父さんとお母さんの代わり、ちゃんと出来ていたかな? 私にも親がいないから……どうやればいいかなんてよく分からなかったけど……。少しでもキティの寂しさを紛らわせる事が出来ていたのなら……嬉しいなぁ」
明日菜はエヴァの寝顔にしみじみとそう囁いた。
(……明日菜さん)
茶々丸はなんとなく明日菜の独り言を聞かなかった事にして、静かに階段を下りていく。普段はあまり表情が無い彼女の口元には、この時は確かに小さな微笑みが浮かんでいた。
「……う」
エヴァは頭痛に顔をしかめながらベッドから上半身を起こした。
カーテンの隙間から光が射し込んで来ており、外から小鳥の囀りが聞こえてくる。どうやら早朝の様であった。
(……なんか前にも似た様な事があったな……)
エヴァの視線の先では、ベッドにもたれかかる様にして明日菜が眠っていた。茶々丸が後からかけたのか、肩から毛布を羽織っている。それが温かいのか、彼女は気持ちよさそうに寝息を立てていた。それを見て、エヴァは困惑の表情を浮かべた。
エヴァには何故こういう状況になっているのかが不可解だった。確か明日菜が家に怒鳴り込んできた時の事まではハッキリと憶えている。しかし、その後の記憶がどうにも朧気だった。
状況的に見て、その後乱闘騒ぎとなり、何かの拍子で意識を失った自分を明日菜が看病をしてくれたのではないか……という事までは推測出来る。だが、それはエヴァにとって、なんとなく面白くない状況だった。魔法界の裏社会で「闇の福音」と呼ばれ恐れられていた彼女にとっては、あまりにも情けない話だ。
「……オイ、起きろ、神楽坂明日菜!」
エヴァはムスッとしたしかめっ面をしながら、明日菜の頭を軽く小突いた。
「ん……あ いけない、あのまま寝ちゃったんだ!?」
明日菜は、ガバリと跳ね起きた。そして、エヴァの姿を目にとめて、
「あ……もう起きてたの、キティ?」
と、優しげに微笑む。
「っな……!?」
長い間誰からも呼ばれた事のないその名を、いきなり呼ばれたエヴァの顔は瞬時に赤く染まった。しかし、まだ寝惚けているのか、そんなエヴァの様子を明日菜はさほど気にせず、
「頭の傷どう? あ……もう消えているわね。これで大丈夫かしら? 良かったね、キティ」
と、エヴァの頭をクリクリとなで回している。
「な、なっ、な……」
「……ん?」
ここに至って、明日菜はようやく小刻みに震えているエヴァの異変に気付いた。しかし、時既に遅し。
「何を馴れ馴れしくしておるのだ、貴様は~っっ!?」
「きゃあああ~っ!? 元に戻ってる~っ!?」
突然暴発したエヴァの怒りに明日菜は度肝を抜かれた。が、エヴァの暴発も取り敢えずはそこで終わりだ。彼女も状況がつかめていないので、怒りよりも困惑の方が大きいらしい。
「ハアハア……。元に戻っただと? どういう意味だ?」
「あ、あのね、エヴァちゃん頭打って記憶無くしていたのよ。だから子供時代に戻っちゃって……その……」
(……そ、それで……キティか……)
しどろもどろな明日菜の説明を聞きながらエヴァは頭を抱えたくなった。自分でも十歳より前の事は実のところよく憶えていないのだが、なんだか一番見られてはならない自身の恥部を、一番見られてはならない者に見られてしまったような様な気分だった。
(こ……こいつ……口封じに消すか?)
一瞬そんな凶暴な考えも頭に浮かんだが、それ以上に今は恥ずかしさで悶絶しそうなのでそれどころではない。
結局、エヴァが出来た事は、その場凌ぎに悪態を付く事だけだった。
「ふ、ふん! それで私の看病の為に一晩中付き添っていたというのか。まったく、あのぼーや同様に貴様は甘すぎる。反吐が出るわ」
「な、なによぉ、そんな言い方無いでしょう!?」
エヴァの物言いに明日菜がにわかに気色けしきばむ。だが、
「大体、さっきの馴れ馴れしい態度はなんだ!? 保護者面しおって! ぼーやだけでは飽きたらず、私の母親にでもなったつもりか、貴様は!?」
「あ……」
明日菜は急に大人しくなった。それが不思議でエヴァは怪訝な表情を浮かべる。それに反して、明日菜の表情はなんとなく嬉しそうだ。
「……お母さんみたいだ……って思ってくれたんだ」
「ぬ……? この前は確か……これで怒ったような気がしたが……?」
「だって、アレは貶し言葉でしょ? でも、今のは褒め言葉。違う?」
「ぬ……」
明日菜にそう指摘されて、エヴァは急になにも言えなくなった。何故かそう言われてみればそんな気がしないでもなかったからだ。
「……って、ああっ もう新聞配達にいかなくちゃっ! 私はもうこの辺で失礼させてもらうわ。茶々丸さ~んっ、エヴァちゃん元に戻ったからもう帰るねーっ」
新聞配達の事を思いだして、明日菜はバタバタと階下へ降りていく。
「ちっ、騒々しい奴だ」
エヴァはそう毒づきつつも、どことなく名残惜しそうな表情で明日菜の後を追った。
「じゃあ、また明日学校でね。エヴァちゃん。茶々丸さん」
「さようなら明日菜さん」
別れの挨拶も手短に、明日菜は物凄いスピード駆けていった。
「ふん……本当に忙しない……」
玄関先で茶々丸と一緒に明日菜を見送ったエヴァは、すぐに家の中に戻らず、何故かそのまま立ちつくしていた。そして茶々丸も、主人に付き合っているつもりなのか、茫洋として立ちつくしている。
二人はそのまま暫くの間無言でいたが、やがてエヴァは小さく呟つぶやいた。
「神楽坂明日菜か……不思議な奴だな。なんだか遠い昔にも出会った事がある様な気がする……」
それは、エヴァが幼児退行してしまった時の経験が過去の記憶と混同してしまった所為なのか、それとも過去に明日菜と似た人物と本当に出会っていた為なのか、おそらくは前者の要素が強いと思われるが、実際の所は定かではなかった。しかし彼女が明日菜に対して何故か懐かしい様な感覚を感じている事だけは確かだ。
「……マスターがそう思うのなら、きっと会っているのでしょう」
と、茶々丸はエヴァの言葉に同意する。そして心なしか期待に満ちた表情で、
「ところで……私とは遠い昔に会った事がある様には感じないのですか、マスター?」
茶々丸だって記憶を失っていたエヴァの面倒を見ていた。それならば明日菜と同様に、エヴァの記憶になんらかの影響を与えていてもいい筈だ。そして、エヴァにとって以前よりも特別な存在になれればいいと彼女は思っていた。
正直、明日菜とエヴァのケンカ友達の様な関係が茶々丸には少し羨うらやまましい。もちろんエヴァとの主従関係は決して崩れる事はないのかも知れないが、だからこそせめてもう少し親密な関係になりたいというのが彼女の希望であり期待だった。
しかし、エヴァはあっさりこう言ってのけたのである。
「む? 昔に会った事があるもなにも、お前は最近作られたばかりだろう?」
「……………」
その瞬間、茶々丸の只でさえあまり動きが見られな顔の表情は、完全に停止してしまったという。
――その後、エヴァは茶々丸から三日間も口を利きいて貰えなくなったどころか、一切の家事さえも放棄されてしまい、茶々丸の有難味を心底思い知ったというが、それはまた別の話であった。
おわり
いかがだったでしょうか? 感想などいただけると嬉しいです。
じゃ、今日はここまで。