プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

NHKスペシャル邪馬台国を掘る 邪馬台国論争の新展開  えっ、卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった?!

2011-01-25 21:15:59 | トピックス

NHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」(123日午後9時放送)を観た。昨日(24日)は、菅首相の施政方針演説があり、”何を呑気な”と言われるかもしれないが、今日は古代史のロマンについて書くことにした。というのは、NHKスペシャルにある通り、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)での発掘が進むにしたがって、邪馬台国畿内説が有力になりつつあるが、これまでの卑弥呼が邪馬台国の女王だという大前提が間違いだとする研究があり、今のところこれを否定する有力な反論がないということを教えられことがあったからである(上野武『女王卑弥呼の都する所』2004NHK出版―経済学者の林直道先生が教えてくれた)。この上野説に従えば、邪馬台国「畿内説」、「九州説」はそれぞれ半面の真理をもつということになる。

 

一昨年(200911月)、3世紀前半の地層から発見された纒向(まきむく)遺跡で邪馬台国の女王・卑弥呼の王宮ともいわれる巨大な建物群が発掘された。纒向は、東西2キロ/南北1.5キロの巨大遺跡。弥生時代末期の3世紀、日本列島の中心都市だったことが明らかになり、邪馬台国の最有力候補地とされている。
邪馬台国論争に決着をつけるべく、昨年7~10月、建物群の周辺で桜井市教育委員会による発掘が行われた。注目は3世紀半ばに掘られた土坑の調査。王の実像を知ることができる出土物が期待された。その結果、纒向が連合国家であったことを示す土器や人為的に破壊された銅鐸(どうたく)などが多数出土。特徴的なのは、2000個以上のモモの種だ。モモは古代祭祀(さいし)で供物に使われたとされ、1カ所からこれほど多数出土したのは国内初という。これらは何を意味するのか--。番組スタッフは発掘調査に密着するとともに、中国取材や気象考古学の研究を交えて謎に迫った。その結果、魏志倭人伝に記述された、卑弥呼が用いたとされる呪術「鬼道」との関連が浮かび上がってきた。

 

弥生時代の終末期、日本は外国からは「倭国」「倭人」と呼ばれていた。その倭国・日本がどんな社会であったかは、当時まだ日本に文字がなかったこともあって、土器などの出土品や墳墓から推測するいわば空白の時代であった。ところが、隣国の先進国・中国は、最近の大作映画『レッドクリフ』で描かれた魏・呉・蜀の三国対立・抗争が魏の制覇で幕を下ろし、西晋に移行する時代であった。この時代に編集された『魏志』「東夷伝」倭人の条に当時の風土・生活習慣・政治体制など日本の姿が、原文2008字を費やして書かれていた。『魏志倭人伝』である。『魏志倭人伝』は、当時の日本社会についてのほとんど唯一・最高の資料であった。

 

魏志倭人伝には帯方郡(現在の韓国ソウル付近)から卑弥呼の女王国までが里数で記述されていて、研究者に「里程記事」と呼ばれている。【帯方(たいほう)郡から倭(わ)へ行くのには】朝鮮半島の海岸づたいに、海上を行く。南に行ったり東に行ったりしながら進むと、狗邪韓(くやかん)国(釜山付近)に着く。ここまでの距離は7,000余里である。始めて海を渡ると、1,000余里で対馬(つしま)国(長崎県対馬)に着く。更に南に海を渡ると、1,000余里で一支(いき)国(長崎県壱岐に着く。更に海を渡ると、1,000余里で末盧(まつろ)国(佐賀県東松浦郡名護屋~唐津市)に着く。陸上を東南に500里行くと、伊都(いと)国(福岡県糸島市)に着く。東南に奴(な)国がある。距離は100里である。東に行くと不弥(ふみ)国に着く。距離は100里である。南に投馬(とうま)国がある。海上を20日かかる(水行20日)。南に邪馬台国がある。女王の都する所である。海上を10日・陸上を1月かかる。(水行10日・陸行1月)【こんなに南に行くと台湾、フィリピン近くになるが、当時の中国人の倭国についての地形認識であったのだろう】


直前まで海上・地上とも里程で統一された表現が投馬(とうま)国以下、ここだけ日程表現になり、しかも「邪馬台国」が登場するのはここの
1ヶ所だけである。しかし、倭人伝には「女王国」の記述は何回か出てくる。

上野武さんは、魏志倭人伝の以前に書かれた文書(例えば魏略・魏書等とそれらの散逸した部分も含めた考古学的資料)との整合性を検証しながら読むことに専念し、倭人伝がどう書かれたかを綿密に検討する

「魏志」は「魏略」を原典としているといわれるが、散逸して完全本は写本も残っていない。その魏略の「倭」を記した主な逸文は二つある。いずれも引用で、一つは「漢書地理誌の後代注」、もう一つは明治時代に大宰府で見つかった「翰苑(かんえん) 写本」である。それらを基に上野氏は、魏略・魏志の分析を進め、里程記事の「卑弥呼の女王国」と日程記事の「女王の都する邪馬台国」は「別の国である」とする結論にいたる。

邪馬台国は、日程記事にあるように、北九州から遠く遠く離れたところに在る。ところが、女王国は帯方郡から12,000里とされており、帯方郡・伊都国間の距離合計(7,000+1,000+1,000+1,000+50010,500里)を差し引くと1500里が伊都国と女王国間の距離となる。これは、末盧から伊都国までの距離500里の3倍ということで、せいぜい久留米あたりである。つまり、女王国は北九州であって、遠い邪馬台国ではない。

卑弥呼の女王国は邪馬台国ではないということだ。 


卑弥呼の都が邪馬台国でなかったことは確実である。なぜなら、西暦
238年(景初2年)、「倭の女王」が魏の国に使いを遣わして朝献し、これに対して魏の王(明帝)から卑弥呼に「汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮綬せしむ」という詔りが出され、この詔書を携えて、梯儁(ていしゅん)という使者が倭にやってきた。この梯儁の復命報告書が「魏志倭人伝」の記述の大部分の基礎資料となった。梯儁は卑弥呼に会い、ちゃんと任務をはたしたが、彼が北九州から海を越えて本州に上陸したり、邪馬台国へ行った形跡は全くない。だから倭人伝の記述も伊都国までは極めて臨場感あふれる具体的な旅の記述で満ちているのに、伊都国からあとは全く形だけの記述となっている。卑弥呼の都した所は伊都国と考えるのが至当である

 

邪馬台国は纒向(まきむく)を中心とした畿内にあった。そのことは水行10日・陸行1月の距離からみても、発掘出土する遺跡から見ても、間違いない。その限り邪馬台国=畿内説は正しい。九州説は正しくない。だが、卑弥呼の女王国が伊都国を都とする筑紫の領域にあったという限り九州説は真実を語っている。

邪馬台国論争はそれぞれ半面の真理をもつということだ
それでは伊都国と邪馬台国はどんな関係になるのか。長くなったのでまたの機会としたい。


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8 コメント

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Unknown (プーニャン)
2011-01-26 22:49:47
右翼の歴史の改竄は近代史と古墳時代に限られる。平安時代とか江戸時代には右翼は興味ないのです。卑弥呼が九州で中国から認められた女酋長であった時、奈良盆地が狼の徘徊する湿地で、天皇家は未だ存在せず、後代にようやく現れた王朝では、万世一系も掛け声も嘘っぽくなってしまう。最近特に活発になってきた邪馬台国近畿説は
第二次大戦の改竄と軌を一にする、新たな皇国史観の復活です。産経や右翼のみならず、朝日やNHKも熱心に喧伝してるが、古代の事なのでサモアランと看過され、右翼の言いたい放題です。纒向は南朝鮮の加羅からやって来た崇神が開いた都です。日本の古代史は日本島の住人で終始した閉じた物語ではなく、東アジアの激動の一エピソードとして生起したのです。島影を有視界で渡れる玄海灘は、隔絶する海ではなく、渡り廊下的通路としての海でした。詳しくは、僕がちょっと私淑する石渡信一郎先生の代表作「応神陵の被葬者はだれか」をお読みください。
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秋津遺跡は纒向より面白い (曲学の徒)
2011-03-04 15:08:37
マスコミによる纒向邪馬台国説の大合唱が続くが、纒向より現在発掘中の秋津遺跡の方がよほど面白い。
卑弥呼の王都の100年後の遺構が出土しているのである。

この近くには径百余歩の卑弥呼の墓もある。
http://yamatai.sblo.jp/
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Unknown (馬鹿め)
2011-10-31 01:07:18
原文を読んだか?
邪馬台国が女王の都であるとはっきりと書いているじゃないか。
どこをどう読んだらそうなるんだ。

九州説信者じゃない限りこんな珍説は誰も信じないぞ。

ちなみに随書にもヤマトは邪馬台国と同じという記述があるぞ。
中国の史料を重要視するなら邪馬台国は大和説できまりだな。

それからイデオロギーと絡めて大和説を攻撃する馬鹿がいるが見苦しいぞ。
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邪馬台国は出雲国 (小林須佐男)
2013-06-29 02:54:05
『隋書』倭国伝より
原文①『倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。』
解釈①『倭国は、百済国や新羅国の東南に在り水陸を越えること三千里、大海中(日本海)の山島(中国山脈・島根列島)に依って(前面は日本海・背面は山)に居する。』 

注釈:百済国や新羅国の東南とは日本海の意であり、太平洋・瀬戸内海では無く玄界灘でも無い。背面は山島に依ってとは出雲国意宇国こと現在の島根県松江市東出雲。
邪馬台国時代の島根列島は四島が独立の島である。
即ち、朝鮮半島の慶州浦項“迎日湾”辺りから日本海を対馬暖流に乗り、出航すると順次、鬱陵(うつりょう)島~竹島~隠岐国(投馬國)現在の隠岐郡都万港そして、対馬国・壱岐国へ行く航路がある。 
※投馬國こと隠岐国から南へ水行10日かけて邪馬臺國に至る。陸行では20日かかる。
原文②『明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望〔体〕羅國、經都斯麻國(対馬国)、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。』
解釈② 『翌年、上(天子こと煬帝)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済国を通過、竹島(島根県)に行き着き(上陸)、南方には〔体〕羅国(投馬國こと隠岐国)を望(見える)み、都斯麻国(対馬国)を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国(壱岐国)に至り、また竹斯国(筑紫国)に至り、また東に秦王国(邪馬台国こと出雲国)に至る。』

注釈:竹斯国(筑紫国)こと北九州の【東】に秦王国(邪馬台国こと出雲国)に至る。と“南”では無く明確に【東】とある。即ち、北九州の東・秦王国とは邪馬台国こと出雲国である。
『北史』(西暦659年唐歴史家:李延壽編纂)にも『隋書』(西暦636年唐歴史家:魏徴等編纂)と同様の記載があり特に『北史』と『隋書』は邪馬台国の比定するにあたっては『魏書』三国志よりも重要な歴史書である。

2013年6月27日
小林 須佐男
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邪馬臺國の女王俾彌呼 (小林須佐男)
2013-07-08 06:32:07
【俾彌呼時代と遣使名】

西暦238年(景初2年)6月、邪馬臺國女王俾彌呼の遣使難升米(ダン・スンミ)こと檀・蘇民(タン・ソミン)
別名・須佐之男命と都市牛利(トヒゴリ)2名が
登場する。
帯方郡太守の劉夏に魏國への朝献申請を行う為である。

西暦238年(景初2年)12月、難升米(須佐之男命)たちは、
申請許可が下りたので、太守劉夏と共に魏國洛陽へ上献。
※西暦239年(景初3年)正月明帝崩御。

『三國志』巻四「魏書」三少帝紀第四条
原文『(景初3年)十二月、詔曰「烈祖明皇帝以正月
棄背天下(略)』と、明皇帝が景初3年正月に
棄背天下(崩御)。との公布日は、
崩後の景初3年12月の事である。
明皇帝が崩御してから、約一年間も秘密裡とした
事情には、激動乱世であった三国鼎立時代がその所以であろう。

2013年7月8日
小林 須佐男
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邪馬臺國の女王俾彌呼 (小林須佐男)
2013-07-10 16:08:42
【俾彌呼時代と遣使名】

西暦238年(景初2年)6月、邪馬臺國女王俾彌呼の遣使難升米(ダン・スンミ)こと檀・蘇民(タン・ソミン)
別名・須佐之男命と都市牛利(トヒゴリ)2名が登場する。
帯方郡太守の劉夏に魏國への朝献申請を行う為である。

西暦238年(景初2年)12月、難升米(須佐之男命)たちは、
申請許可が下りたので、太守劉夏と共に魏國洛陽へ上献。

※西暦239年(景初3年)正月明帝崩御。

『三國志』巻四「魏書」三少帝紀第四条
原文『(景初3年)十二月、詔曰「烈祖明皇帝以正月
棄背天下(略)』と、明皇帝が景初3年正月に
棄背天下(崩御)。
との公布日は、崩後の景初3年12月の事である。
明皇帝が崩御してから、約一年間も秘密裡とした
事情には、激動乱世であった三国鼎立時代がその所以であろう。

2013年7月10日
小林須佐男
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邪馬臺國の女王俾彌呼 (小林須佐男)
2013-07-11 08:47:26
【俾彌呼時代と遣使名】
西暦238年(景初2年)6月、邪馬臺國女王俾彌呼の遣使難升米(ダン・スンミ)こと檀・蘇民(タン・ソミン)別名・須佐之男命と都市牛利(トヒゴリ)2名が登場する。帯方郡太守の劉夏に魏國への朝献申請を行う為である。

①西暦238年(景初2年)12月、難升米(須佐之男命)たちは、申請許可が下りたので、太守劉夏と共に魏國洛陽へ上献。※西暦239年(景初3年)正月明帝崩御。

『三國志』巻四「魏書」三少帝紀第四条原文『(景初3年)十二月、
詔曰「烈祖明皇帝以正月棄背天下(略)』と、明皇帝が景初3年正月に棄背天下(崩御)。
との公布日は、崩後の景初3年12月の事である。
明皇帝が崩御してから、約一年間も秘密裡とした事情には、激動乱世であった三国鼎立時代がその所以であろう。

※西暦240年(正始元年)は魏廃帝芳時代の年号。景初4年銘文の銅鏡製作はあり得ると思う。

西暦240年(正始元年)齊王芳の命令により、太守の弓遵等は、天子からの手紙(漢文字)と金・帛(絹)・鏡などを持参のうえ邪馬臺國女王俾彌呼まで挨拶に来る。

※「魏書」東夷傳倭人の条に『詣書』の記載があり、邪馬臺國には、天子からの手紙を読むことの出来る高官(奴佳鞮)額田が存在していた事が窺える。
 
②西暦243年(正始4年)12月。伊馨耆(イホキ)と共に掖邪狗(イサガ)等8人は正始元年に天子から受賜した手紙と金・帛(絹)・鏡など、お礼の為に魏朝へ上献(生口・倭錦・他)する。

西暦245年(正始6年)難升米(須佐之男命)は、魏国の齊王芳から「黄幢」天子からの旗ぼこを『付郡』魏国の領土である郡の長官から賜る。

西暦247年(正始8年)載斯(サセ)・烏越(オエツ)等が帯方郡の太守へ、狗奴國王・卑彌弓呼(ヒミヒコ)との戦争状況を説明する。

西暦248年(正始9年)卑彌呼が死す。※【第9章】「俾彌呼は天照大神」にて説明。

西暦249年(嘉平元年)司馬懿が曹爽等を粛清後、実権をもつ。
※司馬懿の字は仲達。諸葛孔明を破り、遼東の公孫淵の反乱を平定している。
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『南至投馬國,水行二十日』とは“帯方郡”からの航行 (小林須佐男)
2013-07-14 17:38:30
『南至投馬國,水行二十日』とは“帯方郡”からの航行距離である。

不彌國から “南”へ水行20日で【投馬國】へ行けると、日本の歴史家は、三国志「魏書」東夷傳倭人条の“句読点”を誤った解釈を犯したがゆえに、邪馬台国論争が依然と混乱のうえ展開されている。
東夷傳倭人条の文脈構成を正しく解釈すると、東夷傳倭人条『東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家。』迄が北九州諸国への陸路距離を明記しており“不彌國”までが一区切りの文脈となっている。
そして帯方郡(朝鮮半島東沿岸)から南・投馬國(隠岐国都万港)への距離は水路(出雲航路)のため、その距離は“日月”を以て表記していることに気が付くはずである。

邪馬台国時代の航海はトモド(殿謄戸)舟・帆かけ舟・はにわ舟などにて航行しており、不彌國から “南至投馬國”へとの解釈に従って北九州沿岸から出航して、東廻りの航路にて南下するには、関門海峡と豊予海峡(豊後水道)を乗り切らなければならない。
豊予海峡は、急流うずまく速吸瀬戸とも呼ばれ、大分県北海部郡佐賀関町佐賀関半島地蔵関崎と愛媛県宇和島郡三崎町佐田岬間の海域を言う。
豊予海峡こと速吸瀬戸を南下航行するには逆潮流に向かう事であり現在でも至難という。
当時のトモド舟・帆かけ舟・はにわ舟での航行は対馬海流に流され海流横断は危険であり不可能だったように推察する。
不彌國から南投馬國に至るには水行20日。そして南へ女王の都・邪馬臺國に至るには水行10日さらに陸行一月かかる。など邪馬臺國へ行くには、水行20日+水行10日(合計水行30日)の航行がとれたとしても、舟は大隈半島を超えるだろう。そして陸行一月もかけて九州内陸を縦断すると九州南端の大隈・薩摩半島に到着するだろう。
九州南端には邪馬臺國に該当するような遺跡が無いように思われる。
従って、九州邪馬台国説には地理・物理的にも整合性が薄く不彌國からの『南至投馬國,水行二十日』の航行は現実的に成立しない。
三国志「魏書」東夷傳倭人条の“句読点”を正確に判別(中国古典文学博士級に翻訳)のうえ三国志「魏書」東夷傳倭人条の文脈構成を解釈すると、帯方郡(現:朝鮮半島東沿岸)から投馬國へは水行20日(視達距離航法)で現:隠岐国(投馬國)に着き、さらに南へ水行10日をかけ伯耆大山(標高1711m)を物標に現在の鳥取砂丘に漂着する。そして陸行20日かけて東出雲国の女王卑弥呼の邪馬臺國に至る。
当時の対馬暖流とリマン海流に乗った出雲航路によって【出雲邪馬台国説】には蓋然性がある。
※俾彌呼の鏡として三角縁神獣鏡(魏の年号:景初3年製)島根県「神原神社古墳」より発見されたのは1972年(昭和47年)8月。赤川(斐伊川支流)堤防改修工事の時、多数の副葬品の中から1枚発見された。この発屈は意宇出雲国が「邪馬臺國」である物的証拠の一つと云える。
2013年7月14日
小林 須佐男
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