プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

「兄の分も生きる」   しめやかにベトさんの葬儀

2007-10-08 18:48:06 | トピックス

「べトちゃん・ドクちゃん」は、81年にアメリカ軍がベトナム戦争中に枯れ葉剤をばらまいた土地へ移り住んだ両親から生まれた。のちに、入院していたハノイのベトナム・東ドイツ友好病院(ベトドク病院)にちなんで、いまの名前を授かった。ベトさんとドクさんは、出生時、背骨や、胃など消化器系の臓器は別々だが、下半身がつながった状態で生まれた。仲良しの二人。遊びも勉強も一緒だった。「二人はひとり」の奇跡の命だった。しかし、ベトちゃんの病は二人の命を脅かし、二人とも助かるように分離手術を受けたのだった。88年に日本の医師も協力してツズー病院で分離手術に成功。ドクさんは松葉杖を使って歩けるまでになったが、ベトさんは重い脳障害で同病院で寝たきりの入院生活を続けていた (「しんぶん赤旗」10月7日)。

ツズー病院で3年前から日本語ボランティアをしている洲本市の西村洋一さん(65)によると、ベトさんは6日午前1時半ごろ、肺炎で亡くなったという。一報は弟のドクさんからあった。「ドクさんは一心同体だった兄の死を悲しむ余裕もなく、これまで支援してくれた日本やベトナム国内の団体、報道機関などにまず連絡しなければと、夜が明けてもずっと忙しそうにしている」とのことだった。西村さんは「病院は少ないスタッフを工面して必死に看病していた。枯葉剤の被害の『生き証人』として、兄弟を長く生き続けさせることに医師らは力を入れていた」と話す。ベトさんは分離手術後も、重い脳障害で寝たきりだったが、西村さんは「昨年6月ごろ、ドクさんの婚約時にみんなで記念写真を撮ったが、ベトさんは弟の人生の節目を感じ取っている表情だった。本当に頑張ってよく生きたと思う」と話している(「毎日」10月6日11時29分配信)。

「赤旗」潮流子は次のように哀悼の言葉をおくった「ベトさん、平和と命の尊さを教えてくれてありがとう。日本の基地を使う米軍は、ベトナム戦争のときみたいに、いまもイラクの子どもたちを殺傷しているけれど▼ドクさん、『ベトちゃんとサッカーしたい』の夢はかなわなかったね。ベトさんの分も生きてほしい」(「しんぶん赤旗」10月7日)。

アメリカ帝国主義の世界支配の野望は、徐々に追いつめられているとは言え、なお強大である。最大の残虐兵器である核兵器の「技術革新」に余念がないし、クラスター爆弾の全面禁止をめざす国際的運動が高まると、新型の爆弾を開発し、年内にも実戦配備するという。陸軍兵器工場(ニュージャージー州)の開発担当者によると、今回開発された電池式は衝突の衝撃や角度に影響されにくく、不発率は1%以下。20年以上使わずに倉庫に保管しても、電池などが劣化せず品質を維持できるという。約20年前から開発が進められ、開発、生産費用は「数億ドル以上」(国防総省筋)にも上った(「毎日」10月7日3時2分配信)。

アメリカ帝国主義の野望は、軍産複合体の"儲け"と固く結びついている。 日本はこのアメリカに対して、給油サービスを継続することができなくなったからといって、首相がやめる国である。後継首相も給油サービスの継続に必死である。自民党政治のアメリカいいなりは、本当に異常だ。アメリカ産軍複合体は、ソ連崩壊のあと「敵」がいなくなって大騒ぎであった。いろいろな「敵探し」をやって、最近では、「ならず者国家」が「敵」といったり、「テロリスト」こそが「敵」といったり、いつも「敵」を探し求めている。「アメリカ大統領の最大の仕事は敵を探すことだ」といわれるけれど、「仮想敵」を常に探し求め戦争準備を進めるのがアメリカである。

アメリカの手下に絶対にならないこと――これがベトさんの死にたいする最大の供養である。


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