市民が裁判官とともに殺人など重大な刑事事件の裁判に参加する裁判員制度について、内閣府は2月1日、特別世論調査の結果を公表した。制度の認知率は8割を超えた半面、参加意欲に関し「あまり参加したくないが義務なら参加せざるを得ない」とした44.5%を含め、消極的回答が78.1%を占めた。制度導入を2年後に控え法曹界はPRに力を注いでいるが、市民の不安や負担感の根強さが浮き彫りになった形だ(「西日本新聞」2007年2月2日10:10 )。当然だと思う。われわれ国民が参加したいのは、強いものの横暴を抑える、行政訴訟や労働裁判や民事事件である。殺人など重大な刑事事件の裁判で、死刑や無期懲役を宣告して人の一生を左右することなど望んでいない。
裁判員制度は、市民から無作為に選ばれた裁判員が裁判官と共に裁判を行う制度で、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映すること、裁判時間を短縮することをうたい文句としている。しかし、裁判員制度導入によって、国民に参加が強制される、国民の量刑感覚に従えば量刑が重罰化する、公判前整理によって争点や証拠調べが予め絞られるため、現行の裁判官のみによる裁判と比べて、徹底審理による真相解明や犯行の動機や経緯にまで立ち至った解明が難しくなるとなどさまざまな問題点が指摘されている(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
なんのために、殺人事件や重大事件の裁判だけに、専門家でない国民が参加し、裁判官と全く同一の1票をもって被告の死刑や懲役年数を決する必要があるのか。支配階級の意図は司法の民主化などとまったく別のところにある。
日本はこれまで日本型開発主義、企業社会的統合のもと比較的治安のいい国とされてきた。しかし、90年代にはじまる構造改革で、とりわけ小泉内閣以降、急速に貧困と格差が拡大し、これまでの社会統合の破壊が進んだ。自殺の急増と高止まり、子どもと若者の家族、学校、会社、社会への帰属意識の顕著な後退、犯罪の増加などの「社会的危機」は、当然に支配階級の危機感を高め、また治安維持や社会の安全にたいする国民の関心も高めた(後藤道夫「格差社会の実態と背景」『格差社会とたたかう』青木書店)。
新自由主義改革による社会統合危機への対策には、二種類のタイプがある(現実にはそれらの組み合わせ)。
一つは上層社会統合と呼ばれるもので、これは、①上層国民(そしてそのような意識をもつ構造改革賛成派)を社会秩序の自覚的担い手として育成し(努力した者として優遇)、②中下層については、二大保守政党制を用いてその政治勢力化を防ぎ(革新政党を少数に押し込める)、③治安維持体制を強化してその抵抗を抑える(国民監視・警察権力の拡大)というものである。
もう一つは「新保守主義」「新国家主義」イデオロギーによる統合である。これは、国家、家族、地域、学校などへの国民の帰属意識を鼓舞し、国民のそこへの自発的参加と服従を実現しようとするものである。社会的背景や原因を問わないで、もっぱら規範意識の欠如、道徳の乱れ、自分勝手などが批判される。
裁判員制度は、支配階級の上層社会統合の一手段として導入された。06年10月の裁判員制度宣伝の広告は、裁判に参加することによって「安心して暮らせる社会に何が必要かを自分のこととして考える、昨日までとは違う自分になる」とその狙いを端的に語っている。またポスターでは野球少年を登場させ、「自分の経験と知識を裁判にいかす。いろんな犯罪を自分たちの問題として考える。そして、この社会が少しでもよくなるように願う」と呼びかける。要するに、裁判員制度の採用により、国民は「治安のよい社会」を支配階級とともに日ごろから自分の問題として考えるオール体制派に変えられるのだ(高山俊吉「裁判員制度の裏側」『日本はどうなる2007』金曜日所収)。
裁判員制度、陪審員制度はすべて階級社会のいわゆる「ガス抜き」なのだ。
裁判員制度は、市民から無作為に選ばれた裁判員が裁判官と共に裁判を行う制度で、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映すること、裁判時間を短縮することをうたい文句としている。しかし、裁判員制度導入によって、国民に参加が強制される、国民の量刑感覚に従えば量刑が重罰化する、公判前整理によって争点や証拠調べが予め絞られるため、現行の裁判官のみによる裁判と比べて、徹底審理による真相解明や犯行の動機や経緯にまで立ち至った解明が難しくなるとなどさまざまな問題点が指摘されている(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
なんのために、殺人事件や重大事件の裁判だけに、専門家でない国民が参加し、裁判官と全く同一の1票をもって被告の死刑や懲役年数を決する必要があるのか。支配階級の意図は司法の民主化などとまったく別のところにある。
日本はこれまで日本型開発主義、企業社会的統合のもと比較的治安のいい国とされてきた。しかし、90年代にはじまる構造改革で、とりわけ小泉内閣以降、急速に貧困と格差が拡大し、これまでの社会統合の破壊が進んだ。自殺の急増と高止まり、子どもと若者の家族、学校、会社、社会への帰属意識の顕著な後退、犯罪の増加などの「社会的危機」は、当然に支配階級の危機感を高め、また治安維持や社会の安全にたいする国民の関心も高めた(後藤道夫「格差社会の実態と背景」『格差社会とたたかう』青木書店)。
新自由主義改革による社会統合危機への対策には、二種類のタイプがある(現実にはそれらの組み合わせ)。
一つは上層社会統合と呼ばれるもので、これは、①上層国民(そしてそのような意識をもつ構造改革賛成派)を社会秩序の自覚的担い手として育成し(努力した者として優遇)、②中下層については、二大保守政党制を用いてその政治勢力化を防ぎ(革新政党を少数に押し込める)、③治安維持体制を強化してその抵抗を抑える(国民監視・警察権力の拡大)というものである。
もう一つは「新保守主義」「新国家主義」イデオロギーによる統合である。これは、国家、家族、地域、学校などへの国民の帰属意識を鼓舞し、国民のそこへの自発的参加と服従を実現しようとするものである。社会的背景や原因を問わないで、もっぱら規範意識の欠如、道徳の乱れ、自分勝手などが批判される。
裁判員制度は、支配階級の上層社会統合の一手段として導入された。06年10月の裁判員制度宣伝の広告は、裁判に参加することによって「安心して暮らせる社会に何が必要かを自分のこととして考える、昨日までとは違う自分になる」とその狙いを端的に語っている。またポスターでは野球少年を登場させ、「自分の経験と知識を裁判にいかす。いろんな犯罪を自分たちの問題として考える。そして、この社会が少しでもよくなるように願う」と呼びかける。要するに、裁判員制度の採用により、国民は「治安のよい社会」を支配階級とともに日ごろから自分の問題として考えるオール体制派に変えられるのだ(高山俊吉「裁判員制度の裏側」『日本はどうなる2007』金曜日所収)。
裁判員制度、陪審員制度はすべて階級社会のいわゆる「ガス抜き」なのだ。
所で、少々お尋ねしたいのだが、『貴殿』はどの階級に所属しておられるのでしょうか?????????。
現職、元職、若しくは、経済的基盤をハッキリさせてから『トンでも』理論をご開帳頂きます様、普通の日本人から要請いたします。
まあ、無理でしょうが!アハハハハハハハハ。
国力が落ちてきたから、日本内外で犯罪が多発
することが予想される。
証拠の有無とかを国民自身が判断しなけれあいけない。
大学教授は裁判員に参加しても試験は受けさせないなどとノンキなことをいっていたが、
馬鹿だなあ、と思う。
ではなぜ、世論を誘導する必要があるのでしょうか。おそらくそれは、緊急な軍事力の拡大が必要だからであると推測しています。日本の軍事については賛成や反対のさまざまなイデオロギーが存在します。しかし、この不毛な議論を続ける暇はないと考えられるからです。おそらく、昨今の「食の安全」、「自衛隊幹部の論文」、「食料自給率」などの件は国民の「自然な感覚」に訴える形で、世論を一定方向に導く施策であると考えます。
ようするに人民に人民をやっつけさせる。
労働者に労働者をやっつけさせる。
分断支配の究極の姿なんですね。
民間労働者を公務員労働者にたきつけて、
郵政民営化、規制緩和やって労働者全体の権利をめちゃめちゃにした、小泉式新自由主義の司法版な訳ですね。
秋葉原事件のような事件の原因はトヨタにあると言う議論じゃなくて、事件を起こした被告を死刑にしろと普通の人に処分させる。恐ろしい制度ですね。
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裁判に参加することによって「安心して暮らせる社会に何が必要かを自分のこととして考える、昨日までとは違う自分になる」とその狙いを端的に語っている。