プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

民主主義国家での軍隊と自衛隊  改めて日本国憲法を考える

2008-11-13 20:48:49 | 政治経済
自衛隊は、田母神(たもがみ)氏たち幹部がどう意識しているかは別にして、昔の大日本帝国の軍隊ではない。天皇の股肱の臣、家来としての軍隊ではなく、民主主義国家日本の法制のもとに存在する軍隊である。民主主義国家の軍隊に参加する兵士は、天皇という他者、その道具としてあるのではなく、自分もその一部としてある自分の国の国土と原理を護るために兵士となっているのだ。民主主義、自由、文明を護ることは「市民国家」の市民の自主的な「軍事的奉仕活動」である。
しかし、軍隊の主目的はなにか。いうまでもなく戦争することであり、その戦争に勝つことである。勝つためにはなにが必要か。「敵」―そうみなされた相手を徹底的に破壊し、「殺す」ことである。この軍隊の本質と「国の交戦権はこれを認めない」という「日本国憲法」とは両立するのか。

戦争のない、平和な世界で他人を「殺す」ことは大変な犯罪である。また、誰でも「殺す」ことは、相手がどんな悪人でもためらいがあるものだ(死刑執行人は、どの時代、どの国、どの社会にあっても、うしろめたい存在である)。だから、世界最強の軍隊である米海兵隊の新兵訓練は、「殺せ、殺せ」と新兵に叫ばせることからはじめる。かつての大日本帝国陸軍においても、「殺す」新兵の訓練の最初は、小銃の先につけた銃剣で刺殺させる訓練であった。「殺す」ということにおいて、股肱の臣の軍隊も現代の「民主主義国家」の軍隊もかわりはない

人間は、「市民」が殺せば、途方もない悪、犯罪だが、軍隊=実際は個々の兵士が、「敵」とみなされる相手を殺せば、その場合の「殺す」という悪、犯罪は当然の行為として許容される。むしろ手柄を立てたと賞賛される。これは、敵方からみても同じことである。お互いの殺し合い、人間としてあるまじき悪、犯罪も仕方がない不問にしよう――これは不思議なことだが、この不思議さを不思議としないことを前提にして軍隊は成立している。

「日本国憲法」は「平和憲法」として「国の交戦権はこれを認めない」とこの一種のなれあいの殺し合いを明確に否定した。「交戦権」とは、究極のところおたがいの軍隊は殺し合いをしても罪にならないということである。だから「交戦権」を失った捕虜を殺せば、自分の側の兵士も捕虜になれば殺されるということで、おたがい捕虜を殺さないというジュネーブ条約ができた。現代世界でこうした取り決めを無視した国がわが大日本帝国であった。第二次世界大戦における捕虜の取り扱いで、わが大日本帝国は苛酷きわまりないことをやってのけた。これは、大日本帝国の天皇の股肱の臣の軍隊の性格をよく現している。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」ということで、「皇軍」は捕虜になることが許されなかったから、敵の捕虜の生命など眼中になかったのだ。

第二次世界大戦で私たち日本人は、「殺し、焼き、奪う」の血なまぐさい歴史を中国その他のアジアの人びとに押しつけ、挙げ句の果てに今度は自分たちが「殺され、焼かれ、奪われる」という歴史をもった。ここから、私たち日本人はもう戦争はこりごりだ、戦争にはどんな正義もないという実感をもった。そんな私たちにとっては、戦争の否定、軍隊の否定、どんなことがあっても問題の解決には、武力、暴力を用いないという「平和主義」は、自然な選択であった。だからこそ、「平和主義」を基本にした新しい憲法―「平和憲法」が日本の社会に根づいたのだ。
そして私たちは、あれだけの悲惨な第二次世界大戦を経験したのだから、戦争は悪いという「平和主義」は世界の人びとの常識として共有されていると思った。しかしこれは、美しい誤解であったようだ。

「平和憲法」を国の基本にもち、「平和主義」を「国是」とする国は「ふつうの国」ではなかった。世界の他の国は、たいてい軍隊を当然のごとくもち、戦争も、それが「正義」なら、そう自らがみなすならば、やってのけるが「ふつうの国」であった。そういう意味で日本は特異な国なのだ。
憲法の原理としての「平和主義」は、「正義の戦争はない、戦争はしてはならい」ということだ。「やるべき戦争はある、正義の戦争はある」と考える限り、戦争はなくならない。
交戦権を否定された軍隊、自衛隊の存在とは一体なんなのか。思想としての「平和主義」に立ちもどって深く考えてみたいものだ


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