プロメテウスの政治経済コラム

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温暖化対策中期目標  唖然とさせる経団連の御手洗会長発言  日本人の精神の貧困の象徴

2009-05-13 15:33:06 | 政治経済
いま世界の各国は、京都議定書のあとの温室効果ガス削減目標について真剣な検討を進めている。ところが、経団連の御手洗会長は、11日、削減どころか「4%増」案の支持を表明した。いつもは財界いいなり、能天気の麻生・自公政権であるが、さすがにこの唖然とさせる無責任に対しては、斉藤鉄夫環境相が「そんな目標を出したら世界の笑いものになる」と批判せざるを得なかった。わが国の政治を牛耳る財界総本山の最高責任者のレベルがこんなものであるにもかかわらず、国民からの批判の声は大きくない。日本人の精神の貧困を見る思いである。

2020年までの日本の温室効果ガス排出量削減の中期目標を決める期限が6月末に迫っている。政府が3月末にようやく示した6つの選択肢は、1990年比「4%増」((1)案)から「25%減」((6)案)までの低水準のもの。ところが、国民の間からは大きな議論の盛り上がりがない。4月20日夜、国会議事堂そばの内閣府の地下講堂で、政府が示した中期目標について関係閣僚と国民が議論する「意見交換会」がもたれた。大胆な目標設定に反対する企業側が動員した人々が相次いで発言し、「4%増」案支持の声が続いた。一般参加者枠で発言した14人は、(1)案支持7人、(1)または(2)(1%増―4%減)案支持1人、(3)(7%減)案支持1人、(6)案支持4人、選択肢にない「25%以上」が1人であったという(「しんぶん赤旗」2009年5月10日)。

「4%増」案というような温室ガス「削減」目標にもならないような案がなぜ堂々とまかり通るのか。
私は、人類史的課題であろうがなんであろうが、損得だけでしか判断できなくなってしまっている日本人の精神の貧困をそこに見る「4%増」案というのは、“日本は省エネが進んでいるため、同じ一トンのガスを減らすにも他国より費用がかかる”(「限界削減費用」の理屈)から、「自主努力を促す効率改善目標」(自主目標)など現在日本がとっている政策を継続し、「既存技術の延長線上で効率改善」を図る、新たな努力は何もしなくていいというものだ。過去に排出してきた温室効果ガスの累積など、しらないというのだ。
日本の京都議定書の目標は90年比「08―12年に6%削減」である。ところが、財界の言い分をそのまま認めたため、2007年の温室ガス排出量の実績は「9%増」である。京都議定書の目標さえ達成できない方策で、13年以降のより大きな課題に臨めるわけがない。もともと、すべてを損得でだけしか判断しない日本人は温暖化交渉にまじめに取り組む気がないと世界の人びとは思うだろう

地球は太陽からの光エネルギーで暖められる。地球は大気に覆われているが、その成分には、窒素(78%)、酸素(21%)とともに温室効果のある二酸化炭素(0・04%)などがある。この温室効果ガスは、太陽からの光エネルギーは通過させるが、地表から出されたエネルギーの一部を吸収し、地表に向かって再放射し再び暖める。暖められた地表は、さらに赤外線を放出する。こうして地表温度が上昇する。もし、温室効果ガスがまったくないと、地表は冷えすぎる。この放射バランスが大事なのである。
放射バランスは、1万年前から産業革命期(約250年前)ぐらいまでは安定していた。しかし、産業革命期以降、人類が化石燃料(石炭、石油、天然ガスなど)を使用して排出した温室効果ガスが急速に増えて、地球の温暖化が進んできた

現在、世界の各国は、IPPC(気候変動に関する政府間パネル)第四次評価報告書を前提に地表温度の上昇をプラス2度以内に抑えるための方策について議論している。ターゲットは、21世紀の二酸化炭素の総排出量を1兆8千億トン以内に抑えることなので、削減を早く始めたらそれだけ後が楽になるということだ。
先進工業国は、「大量生産・大量消費・大量廃棄」社会で「豊かな生活」を享受してきた。中国やインドなどの新興工業国が同じ「大量生産・大量消費・大量廃棄」社会の仲間入りをすれば、地球環境が取り返しのつかない危険に晒されることは、目に見えている。

持続可能な経済・社会を地球的規模で実現するために、先進国日本はどんな責任を担うべきか。従来のエネルギー消費を前提にしたままで、「既存技術の延長線上で効率改善」を図るだけでよいのか。「限界削減費用」の理屈を振りかざし、「自分はやらないが、他国は努力せよ」式の主張を繰り返すだけで本当にいいのか。
資本にたいする社会的規制が比較的進んでいるドイツでも、最初は、財界団体であるドイツ産業連盟は、エネルギー・コントロールはできないと、政府に縛られない自主規制方式に固執していたという。しかし、環境保護団体から強い批判の声が出され、政府が圧力をつめるなか、自主規制から公的協定にすすんだ。
日本国民は、この人類的課題に損得勘定だけで臨むのかその倫理観が問われているように思う

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