プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

「君が代」伴奏拒否 最高裁判決 子どもの教育とはなにか

2007-03-17 21:00:55 | 政治経済
「君が代」に関しては、国民主権の憲法のもとで(「天皇」を第一条においたのは、帝国憲法のもとでの天皇の地位が大きく変わり、国民主権のもとで天皇は国民統合の象徴でしかないということを強調したのだ)、君が代、つまり天皇の御代をたたえる歌はその存在根拠を失ったという議論が根強くある。だから、1999年8月法制化を強引に進めた政府当局さえ、法制化しても現場の扱いは変わらない、つまり強要してはいけない、強制してはいけない、ということを国会答弁で何度も明らかにしていた。さらに「教育の中で、正確に、日の丸の歴史と、君が代が生み出されてきた歴史、また、一時期、これがゆがめられて使われた事実、そういうものをきちんと教えることによって学校現場の教育に生かされ、それが民族のアイデンティティとなって、国際的な人間として我が国の国民が育っていくように私どもは努力していかなければならない」(野中国務大臣)と述べ、ちゃんと学習しようじゃないかと提言したのだ(堀尾 同上)。

今回の最高裁判決の多数意見は、結論だけを決めて、理由づけをどうするか未整理のまま書いたという印象で、論理が不明確でわかりにくい要するにピアノ伴奏しても社会「一般的」には権力的規制とは結びつかない(そんなことを言うのは少数者)ということらしい(澤藤統一郎「『君が代』伴奏拒否 最高裁判決」―「しんぶん赤旗」2007年3月9日)。「踏み絵」(ピアノ伴奏)をしても「キリスト信仰」(思想・良心)は傷つかないというおよそ観念的で人権への無自覚な前提に立つものである
その点で藤田宙靖裁判官の反対意見は論理的で説得力がある藤田裁判官は「ピアノ伴奏をすることは自らの信条に照らし原告にとって極めて苦痛なこと」であり、「職務命令と思想・良心の自由との関係についてはさらに慎重な検討が加えられるべきだ」と指摘。「教育公務員は職務の公共性から思想・良心の自由の制限を受ける」とした一審と二審の判決は、人権制約の理由となった「公共の利益」の内容について十分議論されたとはいえず、差し戻す必要があるとした。さらに、原告の「君が代」に対する否定的評価だけでなく、「公的機関が参加者の意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って、このような行動に自分は参加してはならないという信念・信条)」も含めて、憲法19条で保障されるべきだとしている(澤藤 同上)。

子どもはまだ未熟なのだから、自分で判断する力がないのだし、大人たちが責任を持って教育しなければならないというとき、子どもの思想、信条、内面の自由をどう考えるか―これは子どもの教育とは何かといことと深くかかわる問題である。やわらかでしなやかな心に、早くから大人がひとつの型にはめるというのは、教化(Indoctrination)であって、教育(Education)ではない子どもは「未熟なおとな」ではない。その「未熟さ」は現在のおとなをのりこえる「発達の可能態」としてとらえ直されなければならず、「早熟な子ども」を求めれば、その豊かな未来を台無しにしてしまうことになるのだ。子どもはすべての成長段階で、人間として、その成長・発達・学習の権利が保障されなければならない。教師の仕事というのは、何よりも子どもの自由な精神の発達を目指す創造的な仕事であり、それは価値を育てる教育ではあっても、価値を押し付ける教化ではないのである(堀尾 同上)。
君が代」であろうが「インターナショナル」であろうが一律に行動すべく強制してはならないのだ。

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