プロメテウスの政治経済コラム

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『武士の家計簿』  幕末、維新の激動期を生きた経理テクノクラート一家の歴史

2010-12-21 20:40:41 | 映画・演劇

「武士の家計簿」とは、6代綏之(やすゆき)から9代成之(しげゆき)までの4代にわたる金沢藩の経理担当武士の家= 猪山家の家計簿のことである。磯田道史(茨城大人文学部准教授)さんが平成13(2001)年の夏に神田の古本屋の販売目録の中に「金沢藩猪山家文書 入佛帳・給禄証書・明治期書状他」を見つけ、精巧な「武士の家計簿」に出会ったのは、まったくの偶然であった。その日から磯田さんと古文書の格闘が始まった。古文書には、家計簿だけでなく明治初年の家族の書簡や日記も含まれていた。古文書を調べるにつれて、この家族の経験した歴史が次第に明らかになってきた。日常の収支から冠婚葬祭の費用までを詳細に記録した家計簿から、下級武士の暮らしが活き活きと浮かび上がる。驚いたことに、猪山家は、すでに幕末から明治・大正の時点で、金融破綻、地価下落、リストラ、教育問題、利権と収賄、報道被害など現在のわれわれが直面しているような問題をすべて経験していた。

 

猪山家は代々、金沢藩の経理業務にたずさわる「御算用(おさんよう)家」だった。能力がなくても先祖の威光で身分と給禄を保証される直参の上士と違い、「およそ武士からぬ技術」のソロバンで奉公する猪山家は陪臣身分(間接雇用)で給禄も低かった。5代目市進(いちのしん)が前田家の御算用者に採用されて直参となるが、それでも給禄は「切米40俵」に過ぎなかった。

(C) 2010「武士の家計簿」製作委員会

家計簿をつけたのは加賀藩御算用者(おさんようもの)・猪山直之であった。父の時代から江戸藩邸勤務がしばしばあり、当時の前田家の駐在手当が十分でなく赤字であった。また武士としての身分費用が嵩み、猪山家は、年収の2倍をこえる借金を抱え、年18%の高利に苦しんでいた。直之は、妻の実家に援助してもらい、小遣いも現在の貨幣価値で5840円におさえられていた。しかし、天保13年夏に一大決意して家族会議を開き、家族全員の家財・所持品を売り払うことを納得させる。この売却代金を基に、債権者と交渉して借金の整理に成功(その時の売却財産目録や負債明細が残っている)。「二度と借金を背負わないように計画的に家計を管理しよう」と、それ以後、完璧な家計簿をつけはじめた

 

映画は、猪山家八代目の直之(堺雅人)、妻の駒(仲間由紀恵)を中心に七代目猪山信之(中村雅俊)、連れ合いの常(松坂慶子)、おばばさま(草笛光子)らの猪山家のこまごまとした日常を直之の息子成之の眼から描く。

息子成之の着袴の祝いの日、倹約に励む父直之は、祝い膳にのせるお頭付き鯛が買えず、鯛の絵で代用する。親戚一同があ然とするなか、人になんと思われても、「不退転の決意」の父や母はニコニコ顔であった。父直之は、息子成之にそろばんや論語などを徹底的に叩き込む。どんな時代でも確かな技術があれば生き残ることが出来る

加賀120万石の大藩ともなると、藩経営には、経理のテクノクラートが必須である。一般の武士、とくに上級武士は、算術を賤しいものと考える傾向があり、算術に熱心でなかった。猪山家が歴代かけて磨きあげた「経理技術」は藩経営の中核に地歩を占めていく。

猪山家は息子成之の代に家運が急上昇する。江戸時代の武士社会では、猪山家のようなソロバン役人は低く見られていたが、維新の動乱期になると、経理技術者は兵站係として重宝された。猪山成之は明治政府の軍事指揮官・大村益次郎にヘッド・ハンティングされて兵部省入りし、のちに海軍主計となって東京に単身赴任する。その年収は現代の3600万円にもなった。かたや、明治の没落士族は、時代の激動期に厳しい現実を味わうことになった。映画には描かれなかったが、成之の息子綱太郎、鉄次郎も海軍に入った。綱太郎は、『坂の上の雲』の秋山真之と同期であった

 

 

 


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