プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

映画『光州5・18』  流血のない歴史発展はないのか

2008-05-12 21:57:39 | 映画・演劇
映画『光州5・18』をみた。光州事件は1980年5月18日から27日にかけて、全斗煥(チョン・ドファン)軍政下の光州(クワンジュ)で起きた。民主化を叫ぶ素手の光州市民に対する軍の武力弾圧は凄まじい(一般に韓国映画の暴力描写はリアルで過激だ)。歴史の転換期には、いつも暴力がつきものだ。階級闘争が激化すると、支配階級や権力者は議論では絶対に勝てないので、番犬である警察・軍などの暴力装置を最大限につかう。歴史の推進者である被支配階級はほとんど素手に近いから、歴史の発展には夥しい命が犠牲となる。しかし、その犠牲がより多数の人びとを奮い立たせ、時代を前に進める。時代の転換点で自分の命を懸けなければならなくなったとき、渦中に飛び込むか、身を潜めるかは、その人の生き方だ。ただし、後者は人間として永久に歴史の表舞台には立てない。

映画『光州5・18』は、“光州事件”の10日間をはじめて真正面から取り上げた。普通の市民がどのような思いで英雄的な戦を行い、死んでいったかを映画としてのエンターテイメント性をおりまぜながら心の葛藤と軍の暴力による惨劇をリアルに描いている。韓国では、87年まで続いた軍事独裁政権下で光州事件はタブーであった。事件当時のマスコミは市民を「アカ」「暴徒」と決めつけたが本当はどうだったのか。キム・ジフン監督は、「学生と市民の民主化のための努力」であり、「暴徒による暴動」ではなく、全国的な「民主化運動の流れの一環」という民主化後の歴史認識を再確認している。

光州事件の最初の犠牲者は通りすがりの聾唖の青年だったという。状況説明の要求に答えられずにいると「聞こえないふりをしている」と警棒で撲られ、「話せないふりをしている」と軍靴で踏みつけられ、両手をすりあわせて命乞いしながら絶命する。これを多くの市民が目撃した。1980年5月18日、理不尽な殺戮劇のはじまりだった。ある遺族は言う。「自分の家族があんな目に遭って、黙ってる人なんかいないはずだ」と(東京大学東洋文化研究所准教授・真鍋祐子「光州事件とは何だったのか?」映画パンフレットより)。

現在、光州事件は、韓国では「5・18光州民主化運動」と呼ばれている。03年1月に韓国政府が発表した「光州有功者」数によると、死者207人、負傷者2392人、その他の被害者が987人、05年5月に5・18遺族会などの市民団体が発表した調査結果では、けがや後遺症による死亡もふくめ死者は606人に達している。
事件は、1979年10月、朴正煕大統領が射殺され、「ソウルの春」とよばれる全国的な民主化を求める国民運動の盛り上がりの中で起った。軍を掌握した全斗煥は民主化運動を抑えるため、80年5月17日、金大中氏らを連行。これにたいして、他地域では新軍部の出方を見極めようとデモを中断したが、光州市では全斗煥の辞任、戒厳令撤廃と金大中氏釈放を求める大規模なデモへと発展する。軍は市内各所で武力弾圧を開始、21日には全羅南道庁舎前で軍による無差別発砲で数十人の市民が射殺され、これを機に、市民は軍の武器庫から武器弾薬を奪い、軍との銃撃戦に発展。27日には軍が市内に突入し、多数が死亡、ついに鎮圧された。人口75万の光州市に投入された総兵力数は2万人にのぼった(「しんぶん赤旗」2006年5月4日)。

「5・18光州民主化運動」は後に続く人びとにどのような歴史的影響を与えたか。空挺部隊の投入を駐留米軍が容認し、惨禍が拡大したということから、米軍への見方が変わった。アメリカが民族を分断し、分断状況は「北」に勝つための軍事独裁政治を生み、政権が推進する開発が地域格差を招き、鬱積した全羅道民がやむにやまれず蜂起したというのが、80年代の民主化運動を担った人々のテーゼとなった。米国に一定の距離を置き、「北」との融和を優先する盧武鉉前政権につながる路線である。米国との同盟強化、牛肉輸入で妥協した李明博・新大統領の人気が急速に落ちているのは、歴史の教訓を忘れたからだろうか。

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