プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

タウンミーティング――世論操作と傍観(観客)民主主義

2006-12-14 20:19:59 | 政治経済
閣僚と国民との活発な直接対話。そんな触れ込みで小泉内閣が始めたタウンミーティングは、仕組まれた政府のトークショーになっていた。民意を味方につけて抵抗勢力を押し切り、改革を進めていく。タウンミーティングは、「小泉劇場」の舞台装置のひとつだった(「朝日新聞」2006年12月14日)。タウンミーティングとは聞こえは良いがミーティング=会議でも何でもない。ミーティング出席者は殆ど政府側の息がかかった「さくら」ばかり。都合の悪い人間は来ないように抽選を操作する。質問は「やらせ」で政府の意思を受け入れるように世論誘導する。運営は電通や朝日広告社のようなプロパガンダ専門会社に任せ、高額の報酬でマスコミ対策まで任せていた。
さんざん小泉改革を持ち上げておいて、何をいまさらと思うが、「朝日」も気がつかないよりは、ついたほうがよい。

言語学者のノーム・チョムスキーは彼の著作『メディアコントロール』のなかで二種類の異なる民主主義の概念について述べている(以下は主に益岡賢さんがホームページで翻訳されているものを使わせて頂いた)。
第一の考え方は、「民主的社会とは、一般の人々が、自分たちに関連する事柄を処理するにあたって、意味のあるやりかたで、処理に参加する手段を持ち、また、情報伝達が自由で開かれた社会であるとするもの」である。
第二の考え方は、「一般の人々は問題の処理から除外され、また、情報は狭い範囲で厳格に統制されなくてはならないというもの」である( 「傍観(観客)民主主義」)。
チョムスキーはいう。「第二の考えは、民主主義の概念としては奇妙に聞こえるかも知れませんが、大切なのは、実はこの考えこそが、民主主義に対する支配的な考えであるという点を理解すること」である。

「傍観(観客)民主主義」とはウォルター・リップマンの次の言葉に代表される。
「一般の人々は共通の利益というものを全く理解しない」ので、ものごとを処理できるスマートな責任ある特別な階級の人々がそれを理解して管理しなくてはならない。少数のエリート(デューイが言うところの知識階級)は、私たち全てが共有する共通の利益を理解することができるが、「一般大衆」にはそれらは理解できないというわけだ。大衆は「とまどえる群れ」である。彼らは「観客」にとどまることが理想であり、唯一参加できる行動は「特別階級の知識人」を選ぶ(選挙する)ことである。「いったん特別な階級の中で誰が好ましいかについて意見を言った後(選挙の後)は、大衆は後ろに退いて傍観することになっています。」 これが、うまく機能している民主主義だというわけである。 リップマンは、新しい世論操作技術によって、人々が望んでいないことについても「同意を製造する」ことができると主張している。

「国家による組織的宣伝は、それが教育ある人々に支持されて、反論し難くなったら、非常に大きな効果を生む」ことになる。竹中教授や本間教授が使われ、ノーベル賞の野依理事長などのいわゆる有識者が使われるのは、みなこのためである。情報提供(嘘)=メディアと教育(洗脳)制度は「世論操作」に欠かせない両輪でそれを保障しているのが知識階級というわけだ。

教育(洗脳)制度を国家統制とするためにタウンミーティングという巨額な税金を使った政府による大掛かりな「世論操作」がおこなわれた。しかし、われわれは、傍観者でもなければ、「とまどえる群れ」でもない。ひとりテレビの前にすわっているだけなら、傍観者になりかねないが、家族や仲間と話し合い、ともに行動することによって真実を知り、さらなる学習によって自分で考え、反対行動に立ち上がるのだ。

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