プロメテウスの政治経済コラム

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「地域主権改革」の狙いは何か(その2・完) 福祉国家の分権的解体と首長独裁型地方自治体

2011-04-25 21:08:49 | 政治経済

「地域主権」の名で何がすすめられようとしているのか。ちなみに、「地域主権」という言葉は、住民主権でも、国民主権でもない、地域に主権がある状態とはなんのことかよくわからないということで、法案名や条文から削除されることになった。民主党がわざわざ「地域主権」という言葉を使って自民党の「地方分権」との違いを強調したのは、従来の行政・財政上の分権化に加えて、新たに立法権の分権化を推し進め、行財政にかかわる決定権を地域に移すことを印象づけるためだったのだろう。しかし、国の教育や生存権保障の義務を解体し、地方に委ねることによって生まれる市長村の「自己決定権」の拡大を手放しで喜ぶことはできない。そこに待っているのは、「地域単位の受益者負担主義」であり、とどのつまり、住民自治の空洞化に帰結せざるを得ないからである。

【明日より1週間の予定で、ベトナムを訪問します。ブログの更新をしばらく休みます。】

 

「地域主権戦略」がまず進めようとしていることは、教育・保育・福祉等の自治体行政に対する国の義務付け・枠づけを緩和・廃止することである。ここで義務付けというのは、たとえば保育所や学校の施設・運営に関する基準を国が設定して全国の自治体に守らせること、枠づけというのは、学校のクラス定員の枠を設定することである。国が設定する基準や枠が廃止されると、保育所や学校の施設・運営のための基準・ルール等は自治体が決定することになる。そこで、保育・教育にたいする自治体の条例制定権は拡大する。これが、「地域主権戦略」の一般的なイメージである。だが、自治体の条例制定権の拡大は、国の責任放棄でもある。

自治体にたいする国の義務付け・枠付けの廃止は、それらの基準に基づいて負担しなければならない国の財政責任の解放である。こうして、これまで義務付けや枠付けとセットとなっていた国庫負担金は、ひも付きではない一括交付金となる。国にとっては、教育・保育・福祉等のナショナル・ミニマム保障とリンクしない(積算根拠がどんぶりとなった)一括交付金を削減することは容易である。地方の側からみれば、社会保障も教育もみな自己責任・自己負担となる。憲法で保障された教育権や生存権という福祉国家の地域主権の名による分権的解体である。

 

自己決定・自己責任・自己負担の自治体は、自らの財政負担で行政の運営に取り組まなければならない。このような自治体では「応益負担・受益者負担」が原則となる。なぜなら、ある地域で累進課税や法人課税を強化すると金持ち連中や企業はその地域から逃げてしまう。応能負担原則による垂直的所得分配は不可能である。自治体は「受益と負担の関係」の明確化に沿った行財政運営を迫られることにならざるをえない。こうして、各自治体は構造改革路線を「自主的」に進めることになる。自治体は「受益と負担の関係」を外圧として財政的効率を追求する団体、つまり一つの経営体に変貌していく

 

しかし、自治体とは憲法等で要請される公共目的を実現するための機関であって、民間企業のように営利性や効率性を目的とするものではない。ナショナル・ミニマム保障のための国の義務を基準設定の面でも、それを実現するための直接の管理運営の面でも、財源保障の面からも解体して、地方の裁量にゆだね、地方を構造改革の執行単位とするためには、地方の方が「自主的」に構造改革推進の立場に立たなければならない。条例制定権の拡大が地方議会によって妨害されては困るのだ。こうして、「地域主権改革」推進派は、議会制民主主義の弱体化にとりかかる。議会に代わって公共目的を設定するのは誰か。いうまでもなく、それは首長の掲げるマニフェストである。だからこそ、分権化をとなえ、「地域主権」を叫ぶ勢力はこぞって、国・地方の議員定数の削減、首長・議会の二元性見直しを主張し、過激な発言で首長独裁性を目指すのである。橋下大阪府政、河村名古屋市政がもてはやされるのは、支配階級の「地域主権改革」の狙いを実現する先導役をになっているからだ。


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