プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

“総理・官邸奉仕”を正当化 人事一元化 政治は会社の仕事とは違う

2018-02-23 19:21:03 | 政治経済

現代の日本人の多くは「一枚岩」の、上意下達でトップの指示が末端にまで瞬時に伝達され、成員が誰も命令に違背しない、そのような組織を好む。そのような組織こそが「あるべき姿」であり、それ以外のかたち(例えば、複数の組織が混在し、複数の命令系統が交錯し、複数の利害が絡み合うようなかたち)は「あってはならない」ものだと信じている人がたぶん現代人の過半を占めるであろう。この趨勢を「株式会社化」と呼ぶ。

CEOが経営方針を決定するというのはビジネスマンにとっては「常識」である。従業員の過半の同意がなければ経営方針が決まらないような「民主的」な企業はそもそも存在しない。ワンマン経営者は取締役会の合意さえしばしば無視するし、株主総会は事後的に経営の成否について評価を下すが、事前に経営方針の適否について判断する機関ではない。
(http://blog.tatsuru.com/2015/11/27_1602.php)

衆院議院運営委員会は22日、政府が提示した国会同意人事のうち、立花宏人事官(再任)から所信を聴取した。
「国家・国益に奉仕する公務員」を掲げる安倍政権は2014年の国家公務員法改定で幹部人事を内閣人事局で一元管理し、首相官邸が各府省の幹部人事に関与する仕組みを創った。前文部科学事務次官の前川喜平氏が、在任当時、官邸から課長級人事にまで「差し替えろ」「処遇しろ」と指示されたと語ったことを示し、経団連時代から幹部人事一元管理を主張してきた立花氏に見解をただした。

立花氏は「マジョリティー(多数議席)を取った政党が内閣を組織し、内閣が掲げる政策を実現すべく政策チームを動員する。その結果については、次の選挙で国民が判断を下すという対応だ」と、“総理・官邸奉仕”の公務員を生んでいる現状を正当化した。

会社組織的思考に慣れた多くの日本人には一見受け入れられる見解だが、官僚として根本的に間違っている。

株式会社の経営戦略の適否を判断するのは従業員でもないし、取締役会でもないし、株主総会でもない。それは「マーケット」である。「あらゆる社会組織は株式会社のように制度化されねばならない」と心から信じる国民にとって、政治を見た場合、「マーケット」は選挙だということになる。同業他社とのシェア争いが他党との得票率争いに相当する。たしかに「マーケット」における売り上げやシェア争いと同じように開票結果は一夜でわかる。政策の良否は選挙の勝敗によって示される。それで終わりである。「その後」はない。ビジネスマンならそう言うだろう。

けれども、この「株式会社原理主義者」たちはたいせつなことを忘れている。それは「政策は商品ではない」ということである。「国民国家や自治体は株式会社ではない」ということである。
どこが違うのかと言えば、責任の範囲がまったく違うのである。
株式会社にとって考え得る最悪の事態は倒産である。けれども、それで終わりである。株主は出資金を失う。それ以上の責任は問われない。株式会社は世にも稀な「有限責任体」なのである。
だが、国や自治体はそうではない。それは「無限責任体」である。国や自治体に失政・失策があれば、そのツケを後続世代の人々は半永久的に払い続けなければならない。

福島原発はわが国の原子力政策の失敗だが、国土の汚染と住民たちの生業喪失と健康被害は東電が倒産したからと言ってまったく回復されることがない。そもそも私たちは70年前に私たちが選任したわけでもない政治家や官僚や軍人たちが犯した戦争の責任を今も問われ続けているではないか。

政治については、一夜ではことの良否はわからない。吟味のためには時間がかかる。まして、選挙で相対的に多数を制した政党の政策が、選挙結果だけを以て「正しい」ものであることが確定したなどということはありえない。

立花氏は政治の何たるかを全く理解していない。少数意見をも大事にし、多面的、多元的に吟味しながら合意形成に時間をかける。「全員が政策決定がもたらす成功の恩恵も失敗の責任も等しく分かち合う仕組み」が民主政治なのだ。




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