「大悟18遍、小悟其の数を知らず」と云うお言葉が有(在)ります。
そう云う事を聞かされて何回も何回も悟らなければ、本当の悟りが得られない様に思いますが、それは一方から言いますと、ちょっと変化が有(在)ったのです。
その変化は小さいのと大きいの違いであって、矢張り底抜けでは無くて、途中辺のあり方なのです。
本当の悟りと言う物は、「終わり初物」と、有る様に一回限りのものです。
それはどうしてかと言いますと、見たいと思っていた物を一回見たら、もうそれで疑惑は起きないのです。
「事実を見た」のですから。
ところがそれに疑惑が起きるのでしたら、それは本当に見たのでは無くて、何処か見損いなのです。
何かが在ったのです。
それですから、そういう様な物を、悟りとか見性とか云ってごっちゃにするので、それで色々に、悟りと云う物に批判が出るのです。