法身としての自己に徹した「真の忘自己、身心脱落」にも拘わらず、再び悟りを得た人を認める事は、「自分が未だ残っている、自我が死に切っていない大死一番が出来ていない」と、云う事なのです。
この大きな誤りを知らないので、元来自己無きを知りながら、誤って自己の見を生じ、「悟りの病」にこの身心を法の如くに、血涙を以って修行するも、自在に成らないと嘆く人がいます。
この事は、皆この「一大事を明らめず身心脱落と脱落身心の違いを知らない為」です。
法身としての自己に徹した「真の忘自己、身心脱落」にも拘わらず、再び悟りを得た人を認める事は、「自分が未だ残っている、自我が死に切っていない大死一番が出来ていない」と、云う事なのです。
この大きな誤りを知らないので、元来自己無きを知りながら、誤って自己の見を生じ、「悟りの病」にこの身心を法の如くに、血涙を以って修行するも、自在に成らないと嘆く人がいます。
この事は、皆この「一大事を明らめず身心脱落と脱落身心の違いを知らない為」です。