活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

身心心脱落脱落身心7

2022年01月10日 | 法理

ここで注意して置きたい事は、仏道は必ず「発心(ほっしん)・修行・菩提・涅槃」と修行の過程が有(在)ると云う事です。

 

ここの経路無くしては、仏道は実現しないのです。

 

道元禅師の「現状(げんじょう)公案」の冒頭にも云われて居りますが、『諸法の仏法なる時節、即ち迷悟あり生あり死あり諸仏あり衆生あり』とあるとうりに、人は生まれると知らない内に、自己を認めるのです。

 

是れが「無明」です。

ここに自己を認める執性が有(在)るのです。

 

この執着(しゅうじゃく)する性質に随って自他の見を起こし、環境と人との区分をし、この見が「教育」で養われる為に「自性(じしょう)の真性(しんしょう)」を知る事が出来ないのです。

 

人生の生活と言えばこの自我の、見の、生活なのです。

 

その為に見解(けんげ)以外に、法「道」が有(在)る事を知る人は一人もいないのです。

 

この事に気付かれたのは人類始まって以来、おシャカ様以外には居られないのです。

 

人類の苦を根本的に払い尽くしてくれる「道」は、仏法以外に絶対に無いのです。

 

ここに於いて邪見としての迷い苦しみを、絶滅するのが「発心・修行・菩提・涅槃」なのです。


最も大切な事4

2022年01月09日 | 随感

私たち衆生に具わっている「眼(まなこ)」を例に取って考えてみたいと思います。

 

「眼球」はものを映すだけ。

 

「眼球」に習った生活をすれば、苦悩も煩悩も無くなってしまうのではないでしょうか。

 

全ての物には、「そうしなくてはならない」と、云う決まり(規則)が無いのが、「人及び物の本質」なのです。

 

「物の本質」と、いうのは決まり(規則)は無いのです。

 

私たち衆生の身体は、そういう者(事)なのです。


信心脱落脱落信心6

2022年01月08日 | 法理

「身心脱落」は声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)の学道の様子です。

 

即ち「自己を認めた上から仏の教えを学び、本来の面目の有(在)る事を教える道」では、ありません。

 

仏の真意では無いし、本懐でもありません。

 

「脱落身心」は「本源自性天真仏」と、云う事です。

 

即ち本来の面目である、「仏智見を聞き元来仏であり、大道其の物であり、法其の物である真の真性を徹見する道」です。


信心脱落脱落身心5

2022年01月06日 | 法理

前の信心脱落は平等です。

 

平等だけでは世の中に立って、働きが無いと云う事ですから、如何しても自分を忘れて其の物に成ってしまわない限りは働きが無いのです。

 

ですから信心脱落をして自分を忘れ、脱落身心をして自分を活かすと云う事です。

 

それでないと、世の中に立って何の役にも立たないと云う事に成ります。

 

従って自己を忘じただけでは、それだけのもので「悟り」と云うのは未だ迷いの内だと、昔から善く言われている訳です。


信心脱落脱落信心4

2022年01月04日 | 法理

大活現前の時が、信心脱落です。

 

何故「信心脱落」いけないのかと、云いますと既に脱落している身心ですから、身心を脱落する丈不必要な事だと、云う事なのです。

 

最初の信心脱落と云うのは、相手に成り切って、相手も自分も無くなった状態です。

 

平等と云う事です。

 

次に脱落身心と云うのは、自分を忘れて物に成り切った状態ですからおシャカ様の法でも如浄禅師の法でも何でもない自分の法として、世の中を活動することが出来る状態です。

 

ですから差別「しゃべつ」の事です。

 

然ういう事でないと悟りを開いたとは言えません。

 

別の言葉言えば坐禅に成り切り分別に成り切って自己を忘れる事が、信心脱落です。

 

脱落身心と云うのは自分を忘れて物に成り切る事です。

 

此れは差別「しゃべつ」の様子を云った事です。


信心脱落脱落信心3

2022年01月02日 | その他

道元禅師は、こう述べられました。

 

「眼横鼻直(がんのうびちょく)なることを認得して、ほんの少しの仏法も無い 一生参学の大事ここに了る」と。

 

自分は眼は横鼻は縦についていると云う其の事だけを知って帰って来た、と。

 

その他にほんの少しも仏法も無い事がわかった、仏典や祖師の言葉の中に仏法は無かったと云う事を、仰っています。

 

此れが所謂「絶学」と云う事です。

 

大死「たいし」一番の時が、信心脱落なのです。

 

死に切った状態だけが有(在)るのではありません。

 

同時に本当に隔て無く生きる状態・大活現前「たいかつげんぜん」が無ければ成りません。