ここで注意して置きたい事は、仏道は必ず「発心(ほっしん)・修行・菩提・涅槃」と修行の過程が有(在)ると云う事です。
ここの経路無くしては、仏道は実現しないのです。
道元禅師の「現状(げんじょう)公案」の冒頭にも云われて居りますが、『諸法の仏法なる時節、即ち迷悟あり生あり死あり諸仏あり衆生あり』とあるとうりに、人は生まれると知らない内に、自己を認めるのです。
是れが「無明」です。
ここに自己を認める執性が有(在)るのです。
この執着(しゅうじゃく)する性質に随って自他の見を起こし、環境と人との区分をし、この見が「教育」で養われる為に「自性(じしょう)の真性(しんしょう)」を知る事が出来ないのです。
人生の生活と言えばこの自我の、見の、生活なのです。
その為に見解(けんげ)以外に、法「道」が有(在)る事を知る人は一人もいないのです。
この事に気付かれたのは人類始まって以来、おシャカ様以外には居られないのです。
人類の苦を根本的に払い尽くしてくれる「道」は、仏法以外に絶対に無いのです。
ここに於いて邪見としての迷い苦しみを、絶滅するのが「発心・修行・菩提・涅槃」なのです。