大活現前の時が、信心脱落です。
何故「信心脱落」いけないのかと、云いますと既に脱落している身心ですから、身心を脱落する丈不必要な事だと、云う事なのです。
最初の信心脱落と云うのは、相手に成り切って、相手も自分も無くなった状態です。
平等と云う事です。
次に脱落身心と云うのは、自分を忘れて物に成り切った状態ですからおシャカ様の法でも如浄禅師の法でも何でもない自分の法として、世の中を活動することが出来る状態です。
ですから差別「しゃべつ」の事です。
然ういう事でないと悟りを開いたとは言えません。
別の言葉言えば坐禅に成り切り分別に成り切って自己を忘れる事が、信心脱落です。
脱落身心と云うのは自分を忘れて物に成り切る事です。
此れは差別「しゃべつ」の様子を云った事です。