活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

聖(ひじり)に学ぶ10

2020年02月19日 | 法理

心清ければ眼(まなこ)明らかです。

 

「六塵( 六境)”色、声(しょう)、香、味、触(そく)、法」も結果に至れば

「正覚(しょうがく)」に同じなのです。

 

流れに随って性(しょう)を認得すれば喜もなく、憂いもありません。

 

浄地は却って人を迷わすものです。

 

聖が邪法を説けば邪法も正法(しょうぼう)となり、邪人が正法を説けば正法も

邪法なるものです。

 

本来成仏 他より得るにありません。

 

聖の言うことには「一塵を動かさず、一相をやぶらず」「俗を俗としれる人

まれなり」「道心のありよう知る人まれなり」「悟了は未悟に同じ」と。


聖(ひじり)に学ぶ9

2020年02月18日 | 法理

真の證明は仏の語の上にはありません。

 

私たち衆生各自が、実参実究後に真の證明の「真実(正しさ)なること」を

自得出来るのです。

 

おシャカ様は四十九年「法」を説かれましたが、真実をあらわされ

なかったのです。

 

説かなければ多くの人は「法」は分かりません。

しかし、説けばそれだけ「法」にキズがつくのです。

 

この「今」という「今」を大事にしなければなりません。

 

ものをつかむための「今」ではありません。

「今に成るための今」です。

 

覚者の言うことには「自分を運んで万法(まんぼう)を證することを

迷いといい、万法来たって自己を證するを悟り」という。


聖(ひじり)に学ぶ8

2020年02月17日 | 法理

自分自身で「自分自身の法」を相続するのです。

「おシャカ様の法」を相続するということではありません。

 

本当に「自分自身の法」を相続するということは、全てのものが

「空」に成ったということです。

 

このことを「今に帰する」「空に帰する」「無に帰する」と聖はいうのです。

 

みんな一緒なのです。

 

此の事は止むを得ず、修行してもらう以外にどうすることもできないのです。


聖(ひじり)に学ぶ7

2020年02月16日 | 法理

「今」生きているのではありません。

「今」というのは物の無い、認めようがない物なのです。

 

物の「有(在)る、無し」の「無い」ではありません。

「相対的な考えの無い」ではありません。

 

私たち衆生の日常生活は「生死(しょうじ)を超越したところ」

で行なわれているのです。

 

これを「今」というのです。


聖(ひじり)に学ぶ6

2020年02月15日 | 法理

事実において自分自身が「事実その物」に成った事を自分自身で

「證明(しょうみょう)」しなければなりません。

 

おシャカ様の教えは何故正しいのでしょうか。

 

悟りを開くということは何故必要なのでしょうか。

 

一体誰がそのように定めたのでしょうか。

 

おシャカ様の教えが正しいのか正しくないのかと言うことは自ら

證明してみる必要があるのではないでしょうか。

 

おシャカ様が「證明」されるわけではありません。

 

弟子が師匠を證明するのです。


聖(ひじり)に学ぶ5「坐禅について」

2020年02月14日 | 法理

・坐禅を坐禅と知る人 まれなり

人坐禅する あらず 坐禅に坐せらるるなり

 

・坐禅は三界の法にあらず、仏祖の法なり

 

・禅の一字は凡夫の測る処に非ず、禅は執着を忌む

 

・打坐を打坐としれず いまだあらず

 

・坐 著すれば即ち不可なり 坐禅は坐禅なり、坐禅の坐禅

 

・坐禅は悟来底の法なり


聖(ひじり)に学ぶ4

2020年02月13日 | 法理

自分の考え方で修行し悟りを求めれば迷いとなります。

 

善を知り善を行なう 未だ善ではありません。

善を行ない善を忘れるを極上の善といいます。

 

至誠は天地を動かし、四知というお言葉がありますが、そうすれば

天知る 地知る 人知る 我知るのです。

 

仏法とは無所得です

若し仏法を聞く者が有れば成仏しません。

 

聖は心を除くも、決して今の事実に手を付けません。

 

知らずして知るというのは病です。

知ってその状態を知らないのが善です。

 

覚者の言うことには「始めて知る衆生本来成仏なることを、

生死(しょうじ)涅槃 昨夢の如し」

 

「説いて説かず 知って知らず」。


聖(ひじり)に学ぶ3

2020年02月12日 | 法理

現在の結果(今の事実)は過去にその原因があります。

 

未来の結果は現在にその原因があるのです。

 

此の物(自分自身)が無ければ相手にする物は無く、此の物(自分自身)が

ある故に相手にする物が生じてしまうのです。

 

世間あれば人間(にんげん)があります。

人間(にんげん)があれば生き死にはあります。

 

聖の言うことには、

「自らも欺くことなかれ」

「自ら作せるわざわいはのがるべからず」

「識得すれば仇(あだ)と為らず」

「善悪は時なり、時は善悪にあらず、善悪は法なり、法は善悪にあらず」。


聖(ひじり)に学ぶ2

2020年02月11日 | 法理

結局のところ悟り無く、いや悟る者は居ないのです。

 

生は一時にくらいなのです。

死も一時のくらいなのです。

 

私達は神仏を尊んで、神仏に力を貸してもらえるよう頼りとしては

いけないのです。

 

聖の言うことには、「発心(ほっしん)正しからざれば、万行(まんぎょう)

空しく施す」 「道を道にまかするとき得道す」 「仏法の為に仏法を

修する乃ち是れ道なり」。


聖(ひじり)に学ぶ1

2020年02月10日 | 法理

真理は世間に満ちています。

しかし、今の現実を離れての真理は存在しません。

存在することは不可能です。

 

悟りとは平気で死ぬことではなく、平気で生きることです。

 

今の事実を指摘し、今の事実のままに活かして生きる人を聖(ひじり)と

いうと思います。

 

その辺の処は「汝等 足 実地を踏むべし」 「仏法に実なる者は世法に

実ならざるはなし、世法に実なる者は仏法に実ならざるはなし」と

聖(ひじり)は、はっきり述べられて居ります。