活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

根と葉2

2017年04月20日 | 

仏頂(ぶっちょう)長老が芭蕉に問う。

「如何なるか、草木葉上の仏」

と。

 

芭蕉曰く、

「大葉に大仏なり、小葉には小仏あり」

と答えました。

 

同じ物を見て人及び物を愛するを「仏」といいます。

「葉」ばかり見ると、皆異なっています。

「根」に依って見る時は一つです。

 

一つのものが分かれて「葉」になっているのです。

「葉」というものは無数です。

 

ヨーロッパになり、アメリカとなります。

ヨーロッパ人とアメリカ人と、隔離するのはいけないことです。

益々これを愛し合わなければなりません。

 

道歌に、「如何(いか)なれば 雪や氷と隔つらむ 

落ちるは同じ 谷川の水」と。

 

落ちて見なければ同じものであるか、同じものでないか判らぬ

という様な事では困るではありませんか。

 

「心」というものは時間的には「無限」であり、空間的には

「無辺」なのです。


根と葉1

2017年04月19日 | 

道歌に「善悪は 鏡に映る 影法師 よくよくみれば 我が姿なり」と。

「私」が映っているのです。

 

「法」とは「差別(しゃべつ)そのもの」を指します。

「物」には、一々法則があります。

仏教では修證的に物のことを「仏」と名付けたのです。

 

「法」の如く行っていくのが「仏」です。

「柳は緑、花は紅、雀はチュウチュウ、烏はカアカア」というが

如しです。

 

「根と葉」にたとえると、「葉」は「差別(しゃべつ)」です。

「葉」はたくさんあります。

「根」は一つ(平等)です。

 

「葉」は年々変わって行きます。今年の「葉」は枯れ散って

しまいますが、又来年は新しい「葉」が生じます。

けれども、「根」は一つです。

 

空間的、時間的にも「四大(地・水・火・風)の本性」は同じものです。

只、因果の力異なる故に種々の「差別(しゃべつ)」があるまで

なのです。


無病の病

2017年04月18日 | 仏教

「私は特別に尋ねることはありません」

「ないです」

「よいです」

というような言葉がいつも、言葉の端に出て来る人がいます。

 

そういう人は、「自分がそういう意識を用いている」ということに

気が付かないのです。

 

自分で自分を一切閉鎖させてしまって、ものを求めていこうとする

意識がないということから、「無病の病(病のない病)」として

昔から非常に、この「病気」のことを注意しています。

 

「無いものが在る」ということに気が付かないということです。

これは普通の相対的な考え方から出て来る、「有る、無し」の

「無い」です。

 

「無い」というのは「有るの対照」ですから、どんなにしても

「無いものが残る」ということです。

 

あるいは、「只(ただ)」という考えに立って物事を行じ、

自分はこれでよいのだと自分自身でうけがって「我慢」

しているということに気が付かない人もいます。


こういう人たちは、いつかは「我慢に我慢を重ねてきたこと」が

色々な条件によって人間(にんげん)悩ます「四苦八苦」に

必ず行き合わなければならなくなるのです。


随所に主となる

2017年04月17日 | 語録

臨済(りんざい)禅師のお言葉に、

「随所に主となる」

というものがあります。

 

「いつでも、どこへ行っても自分が中心になっている」

と理解すると大変な間違いを生ずることになります。

 

「随所」というのは「客体(相手)」であり、「主」というのは

「主体」のことですが、「主体と客体」というのは、本当は元は

ありません。

 

ですから、「元のないものに成りなさい」ということを、

「随所に主となる」と、いっているのです。

 

別の例えでいえば、「自分はもう修行が出来たから、どんな環境の

中に入っても決して汚れません」という人がいます。

これも間違いです。

 

修行歴によって環境に左右されなくなるということではありません。

環境に左右されながら、その中にいることが出来なければ

修行をしたことにはなりません。

 

それを「不染汚(ふぜんな)」といっています。

知(識)っている人は何も言わないものです。

まだよく知(識)らない人が説明をしたがるということです。

 

言えばそれだけ「疵(きず)」がつき、汚れ、染まるということです。

「そのままになっていて下さい」ということです。

「今のままが一番いい」ということです。

 


賓主(ひんしゅ)

2017年04月16日 | 語録

「賓主(ひんしゅ)」というのは、お客様と主人のことです。

先輩と後輩、先生と生徒とか、いろいろ言われます。

 

今では、このようなことがあまり言われなくなって、

平等と差別(しゃべつ)についても、差別(さべつ)の面

だけが多く取り上げられることになっていますが、「賓主」が

はっきりしないと「差別〈仏教ではしゃべつと読みます〉」

の面で問題が出て来ます。

 

昔から、「平等智はわかりやすいが、差別智(しゃべつち)は

分かりづらい」ということがいわれています。

 

「差別(しゃべつ)」とは、一切のものは、一つのものが分かれた

様子であるということです。

 

ですから、本当は差別智というものがはっきり分からないと、本当の

平等智というのは分からないということです。

 

「觸處(そくしょ)生涯 分(ぶん)に随って足る」という禅語が

あります。

 

「觸處」というのは、自分の触れるところ、生活の場所ということです。

それぞれの人の生涯はそれぞれの場所、自分の位(くらい)によって

みんな足りているという意味です。

 

なかなか自分の立場に真心から満足できないために「賓主」という

ものが乱れることが往々にしてあります。


公案功夫

2017年04月15日 | 坐禅

公案功夫というのは、頭のてっぺんから足の先に至るまで

体中が公案に成るということです。

 

公案だけに成って何も寄りつくことが出来ない、それが公案の

解決です。

 

公案がなくなるとき、自分も一緒になくなります。

相対的な考えの一方が無くなるのですから、一つだけが残るはずが

ありません。

 

そのことを「身心脱落 脱落身心」といっています。

要するに、功夫の力を借りて自己を忘じることです。

 

坐の目標は、公案を看ることではありません。

自己を忘じることです。

 

公案というのは、私たち衆生の意識を起こしやすいように

仕立ててあるのです。

 

意識を起こしやすいようにして、本当に意識が起きなくなる

まで奪っていく、それが公案の要所です。

 

分かろう、分かろうとするようなことをもって、公案を看るのは

よくありません。

 

本当に体中が公案に成ってしまうようであるなら、公案が生きてきます。

自分が納得いったところで公案を看る、ということにして頂きたい

と思います。


公案を考える

2017年04月14日 | 坐禅

公案だけが唯一の坐禅、禅の修行だということではありません。


自分がなぜ公案を看なければならないのか、自分でも考え、

指導者にも尋ねて間違いのない参禅をしないと、禅をすることに

よって、かえって迷いが多くなるということにもなりかねません。

 

公案というのは、弁道、精進の為に非常に役立つものです。

昔は、公案というものはありませんでした。

 

しかし、だんだん人の根気がなくなってきて、黙って坐るということに

堪えがたくなってきたため、やむを得ず便宜上公案に取り組んでいく

ということが、中国から行われてきたのです。

 

ですから、公案そのものは善いものでも悪いものでもありません。

しかし、公案を取り扱う指導者によって一所懸命になっている人を

かえって駄目にしてしまう恐れも無きにしも非ずです。

 

そこで、一つの公案を徹底して看ていくということでないと、間違いを

生ずる恐れがありますので、十分注意して頂きたいところです。


五蘊(ごおん)2

2017年04月13日 | 仏教

私たち衆生の考えの中には、

「これが差別(しゃべつ)で、これが平等だ」

というものがあったとしても、物はそのものそれだけで

平等でも差別(しゃべつ)でもありません。

 

「色即是空」の色というのは「差別(しゃべつ)」、

空というのは「平等」です。

 

ですから、「色即是空、空即是色」という言葉は、

差別(しゃべつ)も平等も決められないということです。

 

ところが、「決められない」と決めてしまうのが「人の考え」です。

どんなにしても「自分」があるうちは、「自分」から考えというものが

離れないものです。

 

ですから、考えは考えの中で、考えによって「無為」にならないと

いけないのです。

 

「無為」又は、「無為にならないといけない」とは、「為すことが

あってはならない」ということです。

 

それが分かれば「自分の法」は、「自分の法」で終わることがはっきり

「自覚」出来ます。

 

そういう教えが、仏教の教えです。

 

 


五蘊(ごおん)1

2017年04月12日 | 仏教

「五蘊(色・受・想・行・識)」の「蘊」とは、

「色(肉体)・受・想・行・識(精神など目に見えないもの)」という

五つが集まったものです。

 

これらの「五蘊」は互いに「融和」をしています。

よく、「私が思う」「私が坐禅する」「私が修行する」と

お話になる方がありますが、「私」という存在はどこにも

ありません。

 

存在がありませんから、目だけが迷うとか、耳だけが迷うということも

ありません。

 

一度にいろいろな「縁」が押し寄せて来ても、いつでも「縁」に

任せていられます。

 

「任せているという意識」を働かせなくても、犬の鳴き声と

鳥の鳴き声を間違えることはありません。

実に「不思議」です。

 

「思議が及ばないところ」としか言いようがありません。

「不」という文字は「あらず」という意味ではありません。

 

平等があれば差別(しゃべつ)があり、差別(しゃべつ)

があれば平等があるように必ず表裏一体となって融和が

保たれているということを、「不」という文字で表わしています。


参禅の功夫

2017年04月11日 | 坐禅

車を運転する方は「信号」も参禅の功夫になります。

赤信号になると止まり、黄色は注意、青色になると発進するのは

何故でしょうか。

 

「五蘊(色・受・想・行・識)」の機能を通じていちいち

「泊まりなさい、進みなさい」と言われなくても、私たち衆生は

青色を見ればそれだけ、赤色を見ればそれだけ、黄色を見れば

それだけの「心意識の働き」があるはずです。

 

しかし、疲れてくるとその機能が弱るということは、確かにあります。

そのくらい私たち衆生は「因縁生」だけで、「人(ひと)」の働き

というものはどこにもありません。

 

そういうことが「坐る」ことだけで、全部解決するというのが

「禅の力」です。

 

ですから、何事をするにも一所懸命になって、そのものに成り切る

必要があるのです。

 

そして、成り切っていることを忘れ、忘れたことをもう一つ忘れる

必要があるのです。

 

そうすると「何にも無くなる時節」があります。

それが、「今(空)」ということです。

 

「今(空)」というのは自分で意識出来ませんが、そういうことが

生まれながらに備わっているのが「法」というものです。