公案だけが唯一の坐禅、禅の修行だということではありません。
自分がなぜ公案を看なければならないのか、自分でも考え、
指導者にも尋ねて間違いのない参禅をしないと、禅をすることに
よって、かえって迷いが多くなるということにもなりかねません。
公案というのは、弁道、精進の為に非常に役立つものです。
昔は、公案というものはありませんでした。
しかし、だんだん人の根気がなくなってきて、黙って坐るということに
堪えがたくなってきたため、やむを得ず便宜上公案に取り組んでいく
ということが、中国から行われてきたのです。
ですから、公案そのものは善いものでも悪いものでもありません。
しかし、公案を取り扱う指導者によって一所懸命になっている人を
かえって駄目にしてしまう恐れも無きにしも非ずです。
そこで、一つの公案を徹底して看ていくということでないと、間違いを
生ずる恐れがありますので、十分注意して頂きたいところです。