「私は特別に尋ねることはありません」
「ないです」
「よいです」
というような言葉がいつも、言葉の端に出て来る人がいます。
そういう人は、「自分がそういう意識を用いている」ということに
気が付かないのです。
自分で自分を一切閉鎖させてしまって、ものを求めていこうとする
意識がないということから、「無病の病(病のない病)」として
昔から非常に、この「病気」のことを注意しています。
「無いものが在る」ということに気が付かないということです。
これは普通の相対的な考え方から出て来る、「有る、無し」の
「無い」です。
「無い」というのは「有るの対照」ですから、どんなにしても
「無いものが残る」ということです。
あるいは、「只(ただ)」という考えに立って物事を行じ、
自分はこれでよいのだと自分自身でうけがって「我慢」
しているということに気が付かない人もいます。
こういう人たちは、いつかは「我慢に我慢を重ねてきたこと」が
色々な条件によって人間(にんげん)悩ます「四苦八苦」に
必ず行き合わなければならなくなるのです。
「只、私は字を書いている」など、只しているんだという思いを起こしてしまったら、
それは大きくズレている、ということでしょうか?
「質問がない」というのも、何もないと思い込んでいる状態ということでしょうか?
あえて言葉にしますが、悟った状態の人は質問が出尽くしているものでしょうか?
お忙しい中大変恐縮である上、坐禅は習禅に非ずではありますが、
何か一つでも教えて頂けませんでしょうか?
宜しくお願いいたします。
「只」とは覚者が道を求める人達に対して、「事実そのもの」を
「説明する(理解してもらう)ために使用したお言葉」です。
何事に於いても「自分を認めて事実を知識として知(識)っているものが
ある状態」では「無病の病」を「克服(打破)」する事は不可能なのです。
「実証」して初めて、もともと「病」と認めるものはなかったと云う
ことが云えるのです。
旧稿「信解行証入(しんげぎょうしょうにゅう)」の大切なところです。
2015/6/1~3
合掌
ご丁寧にご返答くださりありがとうございます。
旧稿、拝読いたしました。
私はまだどうしても頭で理解してしまっているところがあります。
お釈迦様の教え、和尚様のお話を聞くと、その時はそうだと思ってしまう・・・、
通常の勉学と変わらない状態なのだと思います。
昨年からよく拝読いたしておりますが、
間違った状態であったと気付かされるばかりです。
今後も訪問させて頂きたいと思います。
どうぞ宜しくお願いいたします。
認識以前に既に在る存在事実が在ることを識って頂けましたら幸いです。
合掌