公案功夫というのは、頭のてっぺんから足の先に至るまで
体中が公案に成るということです。
公案だけに成って何も寄りつくことが出来ない、それが公案の
解決です。
公案がなくなるとき、自分も一緒になくなります。
相対的な考えの一方が無くなるのですから、一つだけが残るはずが
ありません。
そのことを「身心脱落 脱落身心」といっています。
要するに、功夫の力を借りて自己を忘じることです。
坐の目標は、公案を看ることではありません。
自己を忘じることです。
公案というのは、私たち衆生の意識を起こしやすいように
仕立ててあるのです。
意識を起こしやすいようにして、本当に意識が起きなくなる
まで奪っていく、それが公案の要所です。
分かろう、分かろうとするようなことをもって、公案を看るのは
よくありません。
本当に体中が公案に成ってしまうようであるなら、公案が生きてきます。
自分が納得いったところで公案を看る、ということにして頂きたい
と思います。