「賓主(ひんしゅ)」というのは、お客様と主人のことです。
先輩と後輩、先生と生徒とか、いろいろ言われます。
今では、このようなことがあまり言われなくなって、
平等と差別(しゃべつ)についても、差別(さべつ)の面
だけが多く取り上げられることになっていますが、「賓主」が
はっきりしないと「差別〈仏教ではしゃべつと読みます〉」
の面で問題が出て来ます。
昔から、「平等智はわかりやすいが、差別智(しゃべつち)は
分かりづらい」ということがいわれています。
「差別(しゃべつ)」とは、一切のものは、一つのものが分かれた
様子であるということです。
ですから、本当は差別智というものがはっきり分からないと、本当の
平等智というのは分からないということです。
「觸處(そくしょ)生涯 分(ぶん)に随って足る」という禅語が
あります。
「觸處」というのは、自分の触れるところ、生活の場所ということです。
それぞれの人の生涯はそれぞれの場所、自分の位(くらい)によって
みんな足りているという意味です。
なかなか自分の立場に真心から満足できないために「賓主」という
ものが乱れることが往々にしてあります。