無我に成ろう、あるいは仏に成ろうとしている自分を
忘じた様子が 「真の無我、真の仏」 というべきなのです。
別の言い方をすれば、ものの見方や考え方を学ぼうとしている自分を
捨てた(忘れた) ところに、無とか空というものがあるのです。
そういうことを 「実證(事実においても、理論においても證明する)」 して
いくのが禅の修行です。
無我に成ろう、あるいは仏に成ろうとしている自分を
忘じた様子が 「真の無我、真の仏」 というべきなのです。
別の言い方をすれば、ものの見方や考え方を学ぼうとしている自分を
捨てた(忘れた) ところに、無とか空というものがあるのです。
そういうことを 「実證(事実においても、理論においても證明する)」 して
いくのが禅の修行です。