活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

結果とは 2

2015年11月20日 | 法理
それぞれのものは「法」によって【結果が出ている】訳ですから、様々な煩悩は煩悩そのもの以外では除く事は出来ません。

要は、煩悩は煩悩に成り切る事によって、煩悩と同時に悟りも菩提もなくならないといけないのです。

それを「煩悩が除かれた時」と言います。


不安は、不安をもって不安を除く、その時に安心も同時になくなるから「真の安心、平和」になるのです。

これを間違えると、不安を除く為に様々な手続きや方便を用いて「安心」という結果を得れば、その「安心」が次の「不安」を呼ぶ【原因】になるのです。


「安心」に腰を掛けてしまうとどうしても「結果」が残ってしまいます。

私達衆生は、【結果が得られたというのは途中のものである】という事に気が付かなければなりません。

ですから、「煩悩のまま」「不安のまま」で結構なのです。



結果とは 1

2015年11月19日 | 法理
私達衆生の今の生活というものは、結果の現れです。

「困った、心配だ、不安だ、どうすればよいか」等は全部結果です。

結果は【一つ】しかありません。


例えば、心に二つの事を一度に考えて下さい。

それは不可能です。

善と悪とを一度に考えてみる事は出来ません。


しかし、私達衆生は長い間の習慣でやっているので、出来ると思ってしまいます。

だから「不安があるから安心しなければいけない」と思うのです。


不安という結果が出たら、多くの人は不安がなくなればその時安心だろうとしか考えられないのです。

別の例えで言うと、迷いがなくなればその時が悟りだろうとしか考えられないのです。

それはあくまで相対的な考えです。


ですから、結果に自分の身を任せなければならないのです。

安心しようなどと思ってはいけないのです


安心という状態はどんな状態かというと、不安のない事をいうのです。

ですから、修行 (今の事実に徹する) して「物の本性 (ほんしょう)」をみる必要があるのです。

安心とか、不安とかという事を【超越】しての毎日があるということに、気が付かなければなりません。

修行の眼目

2015年11月18日 | 仏教
法、道、禅、空、如是(にょぜ)、等は全て「私達の今の様子」です。

その他に特殊なものはありません。


もし私達が「自己の正体」を見極めることによって、「社会生活」においての諸々の正しい判断とか、純粋な決定が可能になるという考えを持てば、そういう考えが間違いだということに気付いて頂きたく思います。


「修行の眼目」は「色・受・想・行・識」の中の「識」を見極める点にあります。

「識」は色々な「妄想、迷い」を生じさせます。

しかし、その同じ「識」が「自己の正体」を見極める事を可能にしていることを承知してもらいたいと思います。


要は、「識が空である」事を体得することです。

一応説明として「空」と言っているだけで、この「空」も認めることは出来ないものです。

新帰元 (しんきげん)

2015年11月17日 | 仏教
お葬式の時に、ご戒名の上に「新帰元」という言葉が書かれています。

「新帰元」とは、新しく元に帰るという意味です。

万物を構成している根本である四大 (しだい) 〈地・水・火・風〉 に帰るということです。


もともと実体のないものが「地 」(固いもの)、「水」(湿気を含んだもの)、「火」(熱を含んだもの)、「風」(動くもの) という縁によって、たまたま人となり、あるいは鳥となり、様々な生物や物質になっているだけなのです。

私達衆生は、もともと万物と一体となっていて、「分かれながら一つのもの」であり、一つのものが様々な相 (すがた) になっているのにすぎないのです。


元に帰るとは、人間的な機能がなくなったという事ではありません。

万物は時々刻々変化していますから、【いつも元に帰る】ということが繰り返されているのです。


自分が死んだということも、自分が生まれたということも、自分では分かりません。

生まれたことも知らない、死んだことも知らない、【縁起】が “あるだけ” なのです。

道友に向けて

2015年11月16日 | 法理
仏教徒であるとか、仏教徒でないということに全く関わりなく、一人ひとりが際限のない大きな自分 (自己) に目醒めて「大安心 (だいあんじん)」を得て頂くためには、「道」を歩くことが必要です。

これが仏道、すなわち坐禅の道です。


宗教というのは度々申し上げていますが、「宗 (源) の教え」と書きます。

「宗 (源)」というものは、【万物の本質】です。


宇宙のあらゆるものは “実相は無相である” ということです。

「法性 (ほっしょう)」に目醒めた方を、おシャカ様とか、如来とか、法と お呼びしています。

その法に目醒める道を示した教えが仏教です。


仏教は教えを伝える人も、そして教えを聞く人も、共に【仏教そのもの】なのです。

これを「法が法を伝える」と言います。


したがって、それぞれの異なった思想や宗教を持った人でも、坐禅という自己の参究の教えを実践していけば、本来の大きな自分に目醒めて、それまでの宗教、学問、体験、思想、知識というものを本当に大きく活かして使うことが出来るようになります。

事究竟 4

2015年11月15日 | 仏教
世界の人口は約七十三億人ですから、七十三億人の考えがあります。

もちろん言葉が違うように習慣、風俗も違います。

おシャカ様はそういうものをすべて「空」として理論付けてまとめられ、自分も行じられたということで、仏の考え「仏法」というものを作り上げられたわけです。


「これは仏法で、これは仏法ではない」というと、すでにそこに人の考えが出てきます。

しかし、事がいつも終わっているということから言えば、私達衆生は【いつでも、どこでも、何をしていても】「事究竟 (じくぎょう)」で、自分に随っています。

そして、「事究竟」を【証明できる教え】が「仏法」であり、「事究竟」に【気付くこと】が禅の修行なのです。

事究竟 3

2015年11月14日 | 仏教
心意識の働きを「六道 (りくどう) 〈天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄〉」という言葉で表していますが、これらはすべて「事究竟(じくぎょう)」です。

喜びの時は天上、人間界になると喜怒哀楽の感情が動きます。

修羅界は争いの世界、畜生界はものの道理のわからない世界、餓鬼界はいつも満たされず貪る世界、地獄界は苦しみだけの世界。


このような心意識が「弾指 (だんし)」の間にとめどもなく動いている無常の状態を【空】と言っています。

「空」というのは、絶えず変化し続けて、今天上界に居たかと思うと、次の瞬間には地獄、餓鬼の世界に変化します。


変化し続けながら「事究竟」の状態のままになっているので、比較するものは何もありません。

しかし、私達衆生は【心によって心が迷い、心を働かす】ために、どんな状態にいても落ち着かないで「六道 (りくどう)」をぐるぐる巡って輪廻しているのです。

事究竟 2

2015年11月13日 | 仏教
「事究竟 (じくぎょう)」という言葉があります。

「般若心経」の中にも「究竟涅槃」という文字がありますが、事 (一切のもの) 究竟 (行き着いたところ) 、つまり、すべてのものが「完結」している、「結果」であるという意味です。


私達一人ひとりは、そのような今、今の連続で宇宙の万物と共に生滅 (因、縁、果) を繰り返しています。


たびたび申し上げていますが、私達衆生は、自分の誕生したことを知りません。

生年月日はもちろん、男女の区別も、呼吸しているということも自分ではわかりません。

わからないというよりも、【全く一つのものとしてある】ということです。


それがやがて 二、三歳頃になり、周囲の「人間 (じんかん)」から影響を受けて言葉や習慣を覚えると「知恵」という名の【迷い】が生じます。

そして、長ずるに従って様々な考え方、習慣、風俗、見るもの、聞くもの等によって、その迷いがだんだん増してきます。


しかし、【迷いは迷いのままで終わっている】のが、私達衆生の状態、「事究竟」です。

したがって、私達衆生には「心 (しん)」というものは、どこにもありません。

ないものを仮に「心」と名付けてみたところで、【心が心を心で迷わす】結果になるだけです。

自調

2015年11月12日 | 仏教
「貪、瞋、痴 (とんじんち)」を、言葉だけでとらえてみれば「ものを離れなければならない、腹を立ててはいけない、愚痴をこぼしてはいけない」という解釈です。

最初に、そういうものを認めて「そうしてはいけない、こうならなければならない、こうすべきだ」とするのを、仏教では「自調 (じちょう)」と言います。


これは、【自分を調えているだけ】なのです。

「そうしてはいけない」というおシャカ様の教えだから、「そういうことがあってはいけない」といって、自分を調えているだけなのです。


それではいけないのです。

「煩悩 (貪り、瞋、痴)」を、使いこなせるように【坐ってみる必要がある】と思います。


ひとつ、「ものに執着し尽くして、そのものに成り切って」みていただきたく思います。

そういう努力をして欲しいと思います。

尽くす

2015年11月11日 | 仏教
一つの事に執着し尽くしてみる、この「尽くす」ということは大切なことです。

この「尽くす」ということは、執着がなければ、ものの究極まで「尽くす」ことは出来ません。


ですから、思いきって、執着し尽くしてみると宜しいと思います。

これは、「煩悩」ということでも同じです。


「煩悩 (貪り、瞋り、愚痴)」

こういうものがあるから、物事に対して、目的を達する事が出来るのです。

ただ、貪り、瞋り、愚痴というものに【自分が使われるか、それとも自分が使うか】、それだけの相違があります。


ですから、坐って、坐って修行していくことに執着していけば、そういう貪りや、瞋りや、愚痴を使いこなして、究極に至るということは可能なことなのです。