「愚のごとく魯 (ろ) のごとし」というお言葉があります。
他から見たら何をしている人か分からない、修行らしいことを一切していない人となって修行を「相続」していくことは、大変なことです。
「相続」をしていくということは、【続けていく】ということです。
修行というものは、「やりなさい」と他から強いられて行うものではありません。
これは、出来そうで、なかなか出来ないことです。
そして、「平常心是道 (びょうじょうしん ぜどう) だから、何をしても坐禅だ」という考えに堕ちやすいものです。
坐禅の嫌いな人が「何をしていても坐禅なのだから、ことさらに坐禅をしなくてもいいじゃないか」というようなことを言い出すのです。
しかし、それは間違いです。
何故ならば、何をしていても坐禅ならば、坐禅も【「何をしていても」という中の一つ】です。
坐禅をしようと、横になっていようと、歩いていようと、どんなことをしていても、すべてが「何をしていても」相続でないといけないということです。
これは非常に大変なことですけれども、そういう努力が必要だということです。