活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

泯絶 (みんぜつ)

2015年10月14日 | 語録
「万法 (まんぽう) 泯 (みん) する時 全体現ず」というお言葉があります。

どういうことかというと、目に触れるもの、耳に触れるもの、心に思うこと、みんな「万法」です。

そして、着物などがほころびながらなくなっていく様子を「泯」と言います。

これがすべて「差別 (しゃべつ)」です。


今時では「差別 (さべつ)」~仏教では差別(しゃべつ)と読みます~

というと、悪いように言われていますがそうではありません。

「差別 (しゃべつ)」だけのものですから、善悪はつけられないし、比べることは出来ません。

ただ、「差別 (しゃべつ)」があるということです。


「万法」が差別のままに、妄想や分別というものが、「泯絶 (ほころびなくなっていく)」していくということです。

つまり、元がないから残るものがなくなるということで、ありのままに成りつぶれていく様子をいっているのです。

そうすると、何が「全体に現ずるか」というと、前稿にあげた「宝物」です。

【全体が「宝物」】ということです。


「万法泯する時」とは、全体がだんだんなくなってくるということです。

だんだんなくなっていきながら、一つひとつのものが全部宝物だということです。

これは「差別 (しゃべつ)」と表現されている場合があります。


つまり、一つの全体のものが、ほころびて最後にはなくなってしまうのです。

修行 (今の事実に徹する) というのは、だんだん自分がなくなっていって、最後に残ったものがなくなってしまうということではありません。

「だんだん」といっても、それが自分の全てですからいつでも究極は、「これから」ということはないのです。