「万法 (まんぽう) 泯 (みん) する時 全体現ず」というお言葉があります。
どういうことかというと、目に触れるもの、耳に触れるもの、心に思うこと、みんな「万法」です。
そして、着物などがほころびながらなくなっていく様子を「泯」と言います。
これがすべて「差別 (しゃべつ)」です。
今時では「差別 (さべつ)」~仏教では差別(しゃべつ)と読みます~
というと、悪いように言われていますがそうではありません。
「差別 (しゃべつ)」だけのものですから、善悪はつけられないし、比べることは出来ません。
ただ、「差別 (しゃべつ)」があるということです。
「万法」が差別のままに、妄想や分別というものが、「泯絶 (ほころびなくなっていく)」していくということです。
つまり、元がないから残るものがなくなるということで、ありのままに成りつぶれていく様子をいっているのです。
そうすると、何が「全体に現ずるか」というと、前稿にあげた「宝物」です。
【全体が「宝物」】ということです。
「万法泯する時」とは、全体がだんだんなくなってくるということです。
だんだんなくなっていきながら、一つひとつのものが全部宝物だということです。
これは「差別 (しゃべつ)」と表現されている場合があります。
つまり、一つの全体のものが、ほころびて最後にはなくなってしまうのです。
修行 (今の事実に徹する) というのは、だんだん自分がなくなっていって、最後に残ったものがなくなってしまうということではありません。
「だんだん」といっても、それが自分の全てですからいつでも究極は、「これから」ということはないのです。
どういうことかというと、目に触れるもの、耳に触れるもの、心に思うこと、みんな「万法」です。
そして、着物などがほころびながらなくなっていく様子を「泯」と言います。
これがすべて「差別 (しゃべつ)」です。
今時では「差別 (さべつ)」~仏教では差別(しゃべつ)と読みます~
というと、悪いように言われていますがそうではありません。
「差別 (しゃべつ)」だけのものですから、善悪はつけられないし、比べることは出来ません。
ただ、「差別 (しゃべつ)」があるということです。
「万法」が差別のままに、妄想や分別というものが、「泯絶 (ほころびなくなっていく)」していくということです。
つまり、元がないから残るものがなくなるということで、ありのままに成りつぶれていく様子をいっているのです。
そうすると、何が「全体に現ずるか」というと、前稿にあげた「宝物」です。
【全体が「宝物」】ということです。
「万法泯する時」とは、全体がだんだんなくなってくるということです。
だんだんなくなっていきながら、一つひとつのものが全部宝物だということです。
これは「差別 (しゃべつ)」と表現されている場合があります。
つまり、一つの全体のものが、ほころびて最後にはなくなってしまうのです。
修行 (今の事実に徹する) というのは、だんだん自分がなくなっていって、最後に残ったものがなくなってしまうということではありません。
「だんだん」といっても、それが自分の全てですからいつでも究極は、「これから」ということはないのです。