活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

肯心(こうしん) みずから許す 1

2015年10月04日 | 語録
「肯心 (こうしん) みずから許す」というお言葉があります。

自分で「なるほどそうか、それでいいんだ、このほかにないんだ」というような事を、自分で自分自身を納得して、よしとしたならば、これは仏教でも何でもありません。

仏道を求める人は、修行 (今の事実に徹する) によって修行を完全に忘れ尽くすという、この事のために修行しなければなりません。


先般も「月を指す指だ」と話しました。

私達衆生は、どうしても指に従って月を見なければなりません。

月を見たならば、自分が月になって指の必要は無くなるという事が、真の修行の目的でなければなりません。


先人が「ありのまま」と言ったからといって、ありのままで良いというのではありません。

覚者も、「ありのまま」と言った時は、もうものが変質して「ありのまま」ではなくなっているぞ、と戒められています。


「ありのまま」だから、改めようとして苦労しなくてもよい、というふうに受け取る人がいます。

本来の自己に目醒めなければならない、という事は何処かに行ってしまっているのです。

今のままでいいんじゃないか、というような事が先に立って、苦労しないという事になってしまっています。


古人も修行せずして「ありのまま」などと言った人は、一人も居りません。

ここで注意して頂きたいのは、「ありのまま」というお言葉は、【結果に至った人】の述べられた言葉だという事です。


道元禅師も、「本来このままでよければ何故歴代の覚者は修行なさったのだろう」、という事に疑問を持たれて、中国へ渡り修行されました。

そこで悟りを開かれて帰国し「一毫 (いちごう) も仏法無し」とのお言葉を発せられたのです。