ごく普通の考えですと、
「妄想、分別、雑念、求心 (ぐしん)、葛藤、落ち着かないというものが、坐ることによって、だんだん落ち着いてきて、葛藤がなくなり、雑念、妄想、分別が出なくなる」
と、考え勝ちです。
しかし、そういう状態を描いて、考えて、望んで、坐っていてもそれは駄目なのです。
何故かというと、葛藤そのもの、妄想分別そのもの、落ち着かない気持ちそのものが、すでに【脱落】しているからです。
いわゆる普通の考えでいうと「そんな状態では坐禅になっていないじゃないか」と思われるかもしれません。
唯務 (ただ つとめる) 。
どんな状態にあっても、唯 (ただ) それを務めている、そのものの中に自分の身を沈めて、一切自分の考えというものを出さない。
「坐禅は坐禅なり」ということです。
本当に落ち着かない状態で、足が痛いし、暑いし、寒いし、様々な思想が出ている人がいるでしょうけれども、その事以外 (今の事実以外) に、脱落の状態、悟りの状態、涅槃の状態というのはないのです。
ですから、だんだん静かになっていって、そして【静かになったその結果】が脱落だとか、悟りだとか、涅槃だとか、考えてはいけないということです。
「修証不二、因果一如」というではありませんか。
「今の事実 (修証不二、因果一如)」。
これほど確実なものであるということです。
自分自身のことです。
ほかに求めるものは何もありません。
「妄想、分別、雑念、求心 (ぐしん)、葛藤、落ち着かないというものが、坐ることによって、だんだん落ち着いてきて、葛藤がなくなり、雑念、妄想、分別が出なくなる」
と、考え勝ちです。
しかし、そういう状態を描いて、考えて、望んで、坐っていてもそれは駄目なのです。
何故かというと、葛藤そのもの、妄想分別そのもの、落ち着かない気持ちそのものが、すでに【脱落】しているからです。
いわゆる普通の考えでいうと「そんな状態では坐禅になっていないじゃないか」と思われるかもしれません。
唯務 (ただ つとめる) 。
どんな状態にあっても、唯 (ただ) それを務めている、そのものの中に自分の身を沈めて、一切自分の考えというものを出さない。
「坐禅は坐禅なり」ということです。
本当に落ち着かない状態で、足が痛いし、暑いし、寒いし、様々な思想が出ている人がいるでしょうけれども、その事以外 (今の事実以外) に、脱落の状態、悟りの状態、涅槃の状態というのはないのです。
ですから、だんだん静かになっていって、そして【静かになったその結果】が脱落だとか、悟りだとか、涅槃だとか、考えてはいけないということです。
「修証不二、因果一如」というではありませんか。
「今の事実 (修証不二、因果一如)」。
これほど確実なものであるということです。
自分自身のことです。
ほかに求めるものは何もありません。