仏教というものは「結果」を示したものです。
これは「法(道)の説明」です。
「修証不二」というお言葉があります。
「修(修行)と証(悟り)」というものは本来一つであるという意味です。
これは「結果から見て、そのような境涯に至った人(覚者)」が「修証は一つである」と、そういった訳です。
それが分からない人が「修証は一つである」という事を理解して、そして「一つ出ある」ということ(見)を先に立てて「ものを求めてはいけないんだ、これで善いんだ」というように自分の考えを起こして所業するならば、それは大変な誤りであるという事です。
「修と証、生と死、迷いと悟り、不安と安心」これらは、みんな比較相対したものです。
それではみんな距離(隔て)が有(在)るという事です。
それでは「不二」という事、「一つ物である」という事はいえません。
坐禅で言うならば「坐禅は坐禅なり」で了るようにしないといけないという事です。