活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

ただ坐れる人2

2021年07月31日 | 法理

私たち衆生は、結果として、いつでも「今の結果」にあるわけです。

 

ところが「求心(ぐしん)」求め心がなかなか無くならない為に「今の結果に安住出来ない」ということなのです。

 

安心してその中に入られないのです。

 

結果というものに、「善悪」はありません。

 

善くても悪くても結果です。

 

結果は今で言えば「証拠」ということになります。

 

その「証拠」に自分自身が任せることが出来ないということです。

 

「須弥山(しゅみせん)の如く結果に任す」そういう境涯になるために、しばらく「ただ」という言葉を借りて修行をし「ただに成る」べく努力するということです。

 

しかし、それがすべてではありません。

 

昔の方々が、「このように修行をしたら、あまり苦しまずに坐ることが出来ますよ」ということから、たまたま「祇(只)管打坐」「公案功夫」という、そういう「方法・手段」を残していかれたのです。

 

ですから、私たち衆生はしばらくその手段・方法を借りて修行をするということです。