道元禅師のお示しに「人は坐禅するにあらず 坐禅に坐せらるるなり」とあります。
坐禅の時には「私」というものの介在する余地が無い」という事です。
「坐禅その物に成る」という事です。
「頑張らなくてはならない」というような事でも、純粋という面からいえば「余分の事」です。
それくらい「今(今の様子、今の事実)」というのは垢も付かなければ、汚れる事も出来ない透明なもの、スッキリした者、はっきりしたものであるという事です。
「坐禅の指導者は坐禅その物」です、人ではありません。
坐禅をして「迷いの本性」を分かろうとするのではありません。
坐禅その物が迷いに成ってしまわないと、「迷いの本性」というものは見定める事は出来ないのです。