私たち衆生は何時頃からか、「ものを二つに見る癖」がついてしまいました。
これを「無明」と言っています。
別の言葉で言えば「自分というものを認める」がために、それが「無明」となるのです。
全て「無明」が隔てを作っているので、それが分からないのです。
しかし、よく考えてみると「無明、無明」といっても「無明とすべき塊」は何にもないのではないでしょうか。
それでは一体何が「無明」なのかという事になってきます。
ですから「ものを二つに見る癖、ものを隔てるその様子を無明」と覚えておいてください。
言いかえれば、それが「自我」の事です。
大切な事は「自我を忘れて認識する以前の状態に戻る事」です。
私たち衆生には煩悩や菩提が生じる以前の様子(消息)が必ずあります。
そういう事を「只(ただ)」とか「祇管(しかん)」と言っているわけです。
「法(道)」と「世法」を区別するのは「自我意識」なのです。
ですから「自我の本質」を知(識)る事が修行の究極なのです。
「自我」というものが存在すると、ものが有(在)るという事です。
そこには「時間、空間、隔て」が生じるという事です。
そうなると「法(道)」とは全く無関係の状態です。
いつでも「自己」に立って変化をながめていたのでは「無常の状態」は分かりません。
ほとんどの人は他に何かあるような気がするものです。
それが「無明」ということです。