活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

無明について

2021年07月23日 | 法理

私たち衆生は何時頃からか、「ものを二つに見る癖」がついてしまいました。

 

これを「無明」と言っています。

 

別の言葉で言えば「自分というものを認める」がために、それが「無明」となるのです。

 

全て「無明」が隔てを作っているので、それが分からないのです。

 

しかし、よく考えてみると「無明、無明」といっても「無明とすべき塊」は何にもないのではないでしょうか。

 

それでは一体何が「無明」なのかという事になってきます。

 

ですから「ものを二つに見る癖、ものを隔てるその様子を無明」と覚えておいてください。

 

言いかえれば、それが「自我」の事です。

 

大切な事は「自我を忘れて認識する以前の状態に戻る事」です。

 

私たち衆生には煩悩や菩提が生じる以前の様子(消息)が必ずあります。

 

そういう事を「只(ただ)」とか「祇管(しかん)」と言っているわけです。

 

「法(道)」と「世法」を区別するのは「自我意識」なのです。

 

ですから「自我の本質」を知(識)る事が修行の究極なのです。

 

「自我」というものが存在すると、ものが有(在)るという事です。

 

そこには「時間、空間、隔て」が生じるという事です。

 

そうなると「法(道)」とは全く無関係の状態です。

 

いつでも「自己」に立って変化をながめていたのでは「無常の状態」は分かりません。

 

ほとんどの人は他に何かあるような気がするものです。

 

それが「無明」ということです。