ベッドに横になりながら、何度も、何度も何があったのかを思い出そうとしていた。寝ているのか、起きているのかも分らない。後から、そういえばそんなこともあったな、と思い出すこともいくつかあった。それをまとめて書きとめておこう。
のぞみが17:35、定刻通りに新大阪に着いた。荷物を持って下車してプラットホームに降りると違う車両に乗っていた同僚の姿が目に入った。階段を降りた所で、在来線に乗り換える同僚と別れて、中央出口から外に出た。そこから階段を下り、御堂筋線の改札のある階まで降りた。その途中、カバンが重いので左手から右手に持ち替えようとしたのだが、うまくいかなかった。でも、高速バスの時間まで10分弱しかないから我慢して歩いた。
地下道は蒸し暑くて、人も沢山歩いていた。急いでいるせいもあったのかもしれないが、妙に歩いている人とぶつかることが多くて不思議に思ったような記憶がある。金属製の手摺のあるところで、かばんの重みでバランスを崩してよろめき、そのまま倒れてしまった。倒れてゆく自分を認識していながらそれを防げない。倒れている自分に気がついているのに、起き上がることが出来なかった。周囲から、「無理して起き上がっては駄目だ。しばらく横になったままで。」という声が聞こえた。
しばらく横になっていたが、バスの時間が迫っていた。何とか起き上がり、先を急いだ。まっすぐ歩いている積りなのに、左側の壁に肩が当たった。おかしいなと思って壁を見ると半円形の柱が壁から出っ張っていた。地下道の突き当たりを左に階段を上って、高架下のバス停に到着。何人かがバスを待っていた。辺りは六時前にしては妙に暗く感じたのは気のせいなのだろうか。やがてバスが来て並んだ人達が乗り込んで行く。僕も乗ろうとしてステップに足をのせた積りだったが、バスの階段に頭から突っ込んでおでこの辺りを強打した。騒然とする周囲。僕は眼鏡がバスの中に飛んで行ったのを見ていた。
多分、僕は照れながら自分で起き上がったのだろう。通りすがりのおばさんが後ろから僕を支えてくれていた。僕は眼鏡を探してから、まだバスに乗る積りでいたのだが、その叔母さんは僕を羽交い締めでもするかのようにして、放してはくれなかった。バスの運転手が降りてきて眼鏡を拾ってくれたが、レンズが一枚外れていた。でもそれはバスのステップのところに落ちていた。胸のポケットに入れて一安心。
その時、大きなサイレンの音を鳴らしながら救急車がバスの前に停まったのだ。バスの運転手が呼んだらしい。そして、乗る人は・・・・、自分だった。「頭は打ったけれど、もう何ともないから・・・」そう言ったのだが、救急隊員は質問をしながらも、僕の体を観察しているようだ。「左の足が動かしにくいようですが・・・・」とか、「体を支えようと手でバス停に掴まろうとしましたね」とか。どこから来て、いつ頃から体調が変になったのかなど、聞いている。その内、バスは行ってしまった。途方に暮れる。
救急隊員は脳梗塞を疑っている。それは勘で分る。発症からの時間を予測しているのだ。もし脳梗塞なら、発症からの時間が予後を大きく左右するからだ。隊員は、救急車に乗れと言う。僕は自分に麻痺などが感じられないので躊躇っていた。何度か、押し問答をする内に、隊員は「病院で検査だけでもしてもらいましょう。何もなければ帰れば良いから」と言った。それは理にかなった意見だ。それに発症から多分、まだ20分と経っていないだろう。かくして、僕は生れて初めて救急車の車上の人となった。バスの中でいろいろと聞かれたり、家族への連絡先を教えたり、血圧を測ったり・・・・。家族へは携帯で自分で連絡をしたが、誰も出なかった。
生まれて初めての経験なので、車中で写真を撮って見た。やはり麻痺などはなかった。
起き上がって、大阪の町中をサイレンを鳴らしながら突っ走る救急車でのドライブを楽しんだりした。不真面目だとは思ったけれど。。。やがて、天六の病院に到着しストレッチャーに横になったまま中へ運ばれた。一応の診察、採血などを終えてすぐにMRIとCTの検査に向かう。ストレッチャーから病院の移動用ベッドに移る時は、よく病院物のテレビで見るように、二人かな、四人かな、「イチ、ニッサン」て掛け声をかけて移してくれる。
測定が終わって救急の病室に戻る時も「イチ、ニッサン」なのだが、女性看護師が自信なさそうにしていたので、「自分で移ります」といって移ったら、MRIの技師が目を丸くして驚いていた。戻るとすぐに結果の説明があり、梗塞の跡が二ヶ所あるという。「今は痺れなどはないようだが、今後のことは分らないからすぐに入院して下さい」とのこと。これで万事が休した。そのまま、着替えさせられて4人部屋の病室へ。
しばらくして、兵庫県から家族はやってきて恐る恐る僕の顔を覗きこんだ。でも、正直なところ、何ともない。気がつくと腹が減った。無理もない、昼にカツサンドを食べてから何にも食べていなかった。あれ、もう一年くらい会っていない次男が来ているじゃないか。こんなことでもないと会いに来んとはけしからん奴。そとは丁度、天神祭で賑わっているようだ。時折、花火の上がる音も聞こえてくる。
看護師さんに腹が減ったから何か買ってきてもらって良いかと聞くと、良いという。何でも良いのかと聞くと、以外にも何でもOKらしい。じゃ、たこ焼き。と言ったが無視された。
暗くてピンボケ
家族は夜中の12時頃に帰って行った。バイバイ。
同室の3人はいずれもかなりの重症らしい。しょっちゅう、看護師が来ては世話をしてゆく。僕はと言うと点滴バッグを3つぶら下げて寝返りも打てずに寝転んでいた。夜中も点滴バッグの交換とか、滴下速度のチェックなどが数時間おきに続いた。目が覚めたら歩けなくなっていたりして・・・・
翌朝、病室からの景色。
結局、朝も痺れや麻痺はなく、何とも実感が湧かない。さて、一日の食事を紹介。
朝飯、8時頃。衝撃の粗食だ。心臓食だそうだ。
野菜の茹でたものは、何と味付けがない。
昼飯、12時頃。朝よりマシだが味が無い。
晩飯、6時ごろ。昨夜の弁当が嘘みたい。何でも食べて良いというのは何だったのか・・・・
週末は宿直の医師しかいないからと月曜までの入院には同意したが、粗食と点滴バッグの交換のみの日々だった。そして待ちに待った月曜日が来たのだが退院の話はなく、これから何が原因なのか調べるためにいろいろと検査をするとのこと。まず、採血をして、それから心臓エコー、不整脈があるかもしれないからとホルター式心電図計を装着して24時間連続測定をした。これ、電極が痛くて寝返りできないんだよね・・・・
翌日は、またMRIとCTの測定。頭だけじゃなくて、腫瘍が脳梗塞の原因になることがあるらしいので、腹部も測定。血液検査では腫瘍マーカーも計った。それらの結果はだいたい木曜日には出揃っていて、先生から大まかに説明されたが、結局、何処にもほとんど異常がなくて原因は分らなかったらしい。でも、それで金曜日の朝、退院と決まった。
いつも友達の点滴バッグ君
昼はPCを出して仕事。入院中だというのに、メールはどんどん来る。社から書類を持って人も来る・・・・。
夕食後、今日は2人が部屋を出ていきガランとしている。これがこの病院での最後の夕方。
何となく、感傷的になってしまう。
そして、最後の日。朝5時に起きて点滴バッグをぶら下げながら廊下を歩いた。
日中はリハビリの人達で賑やかな廊下なのだが、ひっそりとしている。
朝の八時になり、点滴バッグを外す時間になった。
これで自由にトイレに行ける。その後、家族が迎えに来てくれ、医師の説明を聞き退院した。清算でびっくり。8日間入院すると、かなりヤバイことになると思い知った。健康診断にしては高くついたかも。
あばよ。病院。長いようで、思い出そうとすると短い8日間だった。
でも、原因が分らんと言う事は、何に気を付けたらいいのか分らないということだ。それも困ったもんだ。
ヘルパーさん、これ内緒にしてくださいね。
のぞみが17:35、定刻通りに新大阪に着いた。荷物を持って下車してプラットホームに降りると違う車両に乗っていた同僚の姿が目に入った。階段を降りた所で、在来線に乗り換える同僚と別れて、中央出口から外に出た。そこから階段を下り、御堂筋線の改札のある階まで降りた。その途中、カバンが重いので左手から右手に持ち替えようとしたのだが、うまくいかなかった。でも、高速バスの時間まで10分弱しかないから我慢して歩いた。
地下道は蒸し暑くて、人も沢山歩いていた。急いでいるせいもあったのかもしれないが、妙に歩いている人とぶつかることが多くて不思議に思ったような記憶がある。金属製の手摺のあるところで、かばんの重みでバランスを崩してよろめき、そのまま倒れてしまった。倒れてゆく自分を認識していながらそれを防げない。倒れている自分に気がついているのに、起き上がることが出来なかった。周囲から、「無理して起き上がっては駄目だ。しばらく横になったままで。」という声が聞こえた。
しばらく横になっていたが、バスの時間が迫っていた。何とか起き上がり、先を急いだ。まっすぐ歩いている積りなのに、左側の壁に肩が当たった。おかしいなと思って壁を見ると半円形の柱が壁から出っ張っていた。地下道の突き当たりを左に階段を上って、高架下のバス停に到着。何人かがバスを待っていた。辺りは六時前にしては妙に暗く感じたのは気のせいなのだろうか。やがてバスが来て並んだ人達が乗り込んで行く。僕も乗ろうとしてステップに足をのせた積りだったが、バスの階段に頭から突っ込んでおでこの辺りを強打した。騒然とする周囲。僕は眼鏡がバスの中に飛んで行ったのを見ていた。
多分、僕は照れながら自分で起き上がったのだろう。通りすがりのおばさんが後ろから僕を支えてくれていた。僕は眼鏡を探してから、まだバスに乗る積りでいたのだが、その叔母さんは僕を羽交い締めでもするかのようにして、放してはくれなかった。バスの運転手が降りてきて眼鏡を拾ってくれたが、レンズが一枚外れていた。でもそれはバスのステップのところに落ちていた。胸のポケットに入れて一安心。
その時、大きなサイレンの音を鳴らしながら救急車がバスの前に停まったのだ。バスの運転手が呼んだらしい。そして、乗る人は・・・・、自分だった。「頭は打ったけれど、もう何ともないから・・・」そう言ったのだが、救急隊員は質問をしながらも、僕の体を観察しているようだ。「左の足が動かしにくいようですが・・・・」とか、「体を支えようと手でバス停に掴まろうとしましたね」とか。どこから来て、いつ頃から体調が変になったのかなど、聞いている。その内、バスは行ってしまった。途方に暮れる。
救急隊員は脳梗塞を疑っている。それは勘で分る。発症からの時間を予測しているのだ。もし脳梗塞なら、発症からの時間が予後を大きく左右するからだ。隊員は、救急車に乗れと言う。僕は自分に麻痺などが感じられないので躊躇っていた。何度か、押し問答をする内に、隊員は「病院で検査だけでもしてもらいましょう。何もなければ帰れば良いから」と言った。それは理にかなった意見だ。それに発症から多分、まだ20分と経っていないだろう。かくして、僕は生れて初めて救急車の車上の人となった。バスの中でいろいろと聞かれたり、家族への連絡先を教えたり、血圧を測ったり・・・・。家族へは携帯で自分で連絡をしたが、誰も出なかった。
生まれて初めての経験なので、車中で写真を撮って見た。やはり麻痺などはなかった。
起き上がって、大阪の町中をサイレンを鳴らしながら突っ走る救急車でのドライブを楽しんだりした。不真面目だとは思ったけれど。。。やがて、天六の病院に到着しストレッチャーに横になったまま中へ運ばれた。一応の診察、採血などを終えてすぐにMRIとCTの検査に向かう。ストレッチャーから病院の移動用ベッドに移る時は、よく病院物のテレビで見るように、二人かな、四人かな、「イチ、ニッサン」て掛け声をかけて移してくれる。
測定が終わって救急の病室に戻る時も「イチ、ニッサン」なのだが、女性看護師が自信なさそうにしていたので、「自分で移ります」といって移ったら、MRIの技師が目を丸くして驚いていた。戻るとすぐに結果の説明があり、梗塞の跡が二ヶ所あるという。「今は痺れなどはないようだが、今後のことは分らないからすぐに入院して下さい」とのこと。これで万事が休した。そのまま、着替えさせられて4人部屋の病室へ。
しばらくして、兵庫県から家族はやってきて恐る恐る僕の顔を覗きこんだ。でも、正直なところ、何ともない。気がつくと腹が減った。無理もない、昼にカツサンドを食べてから何にも食べていなかった。あれ、もう一年くらい会っていない次男が来ているじゃないか。こんなことでもないと会いに来んとはけしからん奴。そとは丁度、天神祭で賑わっているようだ。時折、花火の上がる音も聞こえてくる。
看護師さんに腹が減ったから何か買ってきてもらって良いかと聞くと、良いという。何でも良いのかと聞くと、以外にも何でもOKらしい。じゃ、たこ焼き。と言ったが無視された。
暗くてピンボケ
家族は夜中の12時頃に帰って行った。バイバイ。
同室の3人はいずれもかなりの重症らしい。しょっちゅう、看護師が来ては世話をしてゆく。僕はと言うと点滴バッグを3つぶら下げて寝返りも打てずに寝転んでいた。夜中も点滴バッグの交換とか、滴下速度のチェックなどが数時間おきに続いた。目が覚めたら歩けなくなっていたりして・・・・
翌朝、病室からの景色。
結局、朝も痺れや麻痺はなく、何とも実感が湧かない。さて、一日の食事を紹介。
朝飯、8時頃。衝撃の粗食だ。心臓食だそうだ。
野菜の茹でたものは、何と味付けがない。
昼飯、12時頃。朝よりマシだが味が無い。
晩飯、6時ごろ。昨夜の弁当が嘘みたい。何でも食べて良いというのは何だったのか・・・・
週末は宿直の医師しかいないからと月曜までの入院には同意したが、粗食と点滴バッグの交換のみの日々だった。そして待ちに待った月曜日が来たのだが退院の話はなく、これから何が原因なのか調べるためにいろいろと検査をするとのこと。まず、採血をして、それから心臓エコー、不整脈があるかもしれないからとホルター式心電図計を装着して24時間連続測定をした。これ、電極が痛くて寝返りできないんだよね・・・・
翌日は、またMRIとCTの測定。頭だけじゃなくて、腫瘍が脳梗塞の原因になることがあるらしいので、腹部も測定。血液検査では腫瘍マーカーも計った。それらの結果はだいたい木曜日には出揃っていて、先生から大まかに説明されたが、結局、何処にもほとんど異常がなくて原因は分らなかったらしい。でも、それで金曜日の朝、退院と決まった。
いつも友達の点滴バッグ君
昼はPCを出して仕事。入院中だというのに、メールはどんどん来る。社から書類を持って人も来る・・・・。
夕食後、今日は2人が部屋を出ていきガランとしている。これがこの病院での最後の夕方。
何となく、感傷的になってしまう。
そして、最後の日。朝5時に起きて点滴バッグをぶら下げながら廊下を歩いた。
日中はリハビリの人達で賑やかな廊下なのだが、ひっそりとしている。
朝の八時になり、点滴バッグを外す時間になった。
これで自由にトイレに行ける。その後、家族が迎えに来てくれ、医師の説明を聞き退院した。清算でびっくり。8日間入院すると、かなりヤバイことになると思い知った。健康診断にしては高くついたかも。
あばよ。病院。長いようで、思い出そうとすると短い8日間だった。
でも、原因が分らんと言う事は、何に気を付けたらいいのか分らないということだ。それも困ったもんだ。
ヘルパーさん、これ内緒にしてくださいね。
ともかくも無事ご退院できてよかったですね。
原因がわからないということは、今回は大丈夫だけど、あまり無理をしてはいけないよという天からの忠告なのかもしれませんね・・。
ご静養をと申し上げても相変わらずのお忙しさのようですが、どうぞお大事に!
大変でしたね
とにかくご無事で何よりです
くれぐれもお大事に♪
ヘルパーさんではないですが 内緒にしておきますね
お仕事お仕事って無理ヮ いけないデス。
バスに乗らなくて救急車で良かったんだと思ひマス。
お大事に。
でも、1週間、のんびりとできました。重い症状の人も沢山いて、その中に居ると軽い症状で運が良かったのだと思います。
今は、何ともありません。ちょっと長い休みを貰ったような気分です。
でも、同じ休みだったら涼しい高原で過ごしたかったな。
たまった仕事を処理するのが大変です・・・・。
あの時、救急車を振り払ってバスに乗り込んでいたら、と考えたこともありますが、そうしていたら今、どうなっているのか分りませんね。
これからは仕事は人に押し付けて・・・・、なんてね。
俺も救急車には4回程お世話になったけど、車内の写真を撮った人は聞いた事がない!
まあ、良かったと言えばそうだけど…。
今日朝、モーニングショウで脳梗塞の特集をしていた。
以外に夏場が一番多いそうだ。
暑さで汗をかいて血液中の水分が少なくなり、梗塞になりやすいそうだ。
ブログに書いてた特徴が、テレビで言ってたのと一致する。半身が思うように動かず、真っ直ぐ歩いてるつもりがどちらかに寄ってくる。
寝る前の水分補給と起きた時の水分補給が大事です。
言っとくけど、水分補給ってビールじゃないんだよ!ただの真水だからね。
俺も心筋梗塞やってるから毎晩水を飲んでるよ。
これ、今から始めた方がいいよ。脳梗塞の予防にもなるからね。
まぁ、酒を控えて、余り旨いものも控えた質素な生活を心掛ける事だね。
お大事に…。
それでも、茶化すところが流石!と感心してましたよ。
車内の写真は盗撮ではないですよ。ちゃんと、「初めての経験だから写真撮っていいですか?」と聞いて撮りました^^;)
起き上がって、景色も見ていたし・・・
やっぱり、脱水だったのでしょうね。前日、例によってビールをかなり飲んで、早朝から出張に出たので、水分をあまり摂ってなかったんでしょう。
帰りの車内でのビールがとどめだったかも。
今は、何ともないですよ。でも、旨い魚が食べたい!
よく山にも行かれるようなので、これからは水分補給をこれまで以上に気にした方がよさそうですね。人が多くいるところで動けなくなってよかったです。
ちなみに上記の人はたまたまハイカーが通りかかって、携帯電話の通じるところまでそのハイカーが行って、救急に連絡ができて、ドクターヘリで病院へ運ばれて大丈夫でした。本人曰く、好きなことをやっているときだったらそのままあの世に行ってもよかったけど、運がよかった、と。
脳梗塞でも非常に冷静に周りの状況を把握できるものなんですね。起こる部位と広さによって変わると思いますが、、、
山ではお茶では、電解質不足になって痙攣するのが最近わかりました。もちろん、ビールも駄目。
スポーツ飲料じゃないと・・・・。
人のいない山で動けなくなるというのは、怖いですね。
意識がはっきりしていたら、焦り、恐怖感も凄いのでしょう。
今回はバスに頭から激突した時点では、梗塞はなくなっていたかもしれません。