たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

諸行無常

2013年01月25日 | 日記

アルジェリア人質事件の犠牲者10人中9人と、生還者7人が今朝帰国された。「お帰りなさい」と言って迎えたい。

浄土仏教では法事の際、法要の後で「御文章」、とか「お文」(おふみ)という浄土真宗中興の祖といわれる蓮如上人の書かれた門徒布教のための文章が読まれます。

故郷の菩提寺では法会にお参りした全員が導師と共に唱和するし、私がお世話になる手次寺では導師だけが読まれる。その後短い説法をされます。
お文は1帖(1編)~5帖まであり全節80条からなる長い文章です。中でも5帖16の「白骨のお文は」有名です。

「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(じんしん)をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうとも知らず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝(あした)に紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べには白骨となれる身なり。・・・」

人生の無常、はかなさをよく現された名文です。
熱砂の砂漠で受難者となられた犠牲者の「ご逝去を悼み、謹んでお悔み申し上げます」。
 少し飛びますが、普通はこの後「心からご冥福をお祈り申し上げます」と結語が普通です。ところが、真宗大谷派の教化資料では「ご冥福」とは安易に使ってはいけないのだと教えます。
“冥福を祈る---
 冥土(めいど)---死者の霊が迷い行く道。また、行きついた暗黒の世界。冥界(みょうかい)。黄泉路(よみじ)。(広辞苑)
  冥福(めいふく)---死後の幸福、人の死後の幸福を祈るために仏事を修すること。(広辞苑)
すなわち、「冥福を祈る」と声をかけることによって、死後の世界を想定し、死者を迷いの世界、暗黒の世界へ送り込んでいるのです。
  「安らかに眠る」とは「生前、悲しいことも辛いこともあったけれど、どうかそれらの無い世界に行ってゆっくりとおやすみください」という意味が内包されています。一見すると死者を案ずるかのようですが、眠らせることによって、死者の声なき声に耳を閉ざしてしまっているのではないでしょうか。“  2009.11岐阜同朋vol.100 (真宗大谷派東京教区教化委員会発行「葬儀を縁にして」参考) と、教えています。

いづれにしても、犠牲になられた尊い命に思いを致し、御魂よ、安らかにと願わずにはおられません。いっときも手放せない電気や暖房、車の基は石油に依存していて、石油無しには過ごせません。その油が過酷な砂漠で命をかけて働いてくださる、無名の人々のお陰であることに思いを致しましょう。原発ノーも言葉遊びにならないよう、ひとりひとりが真剣に考えることが求められています。

今回の事件が同じ宗教のひとつ、イスラム教の狂信的過激派によって行われたテロ行為であることが許せません。
「人間は自分ひとりの力だけで生きているのではない。何かにうながされて生きていると感じたら、それが神であり仏なのだ」と、紀野一義先生の本にあります。
この駄文を、乙女エレンが聖母マリアに許しを請う、歌姫スラヴァのアヴェマリアの妙なる歌をBGMとしてWordで起稿しました。私の宗教感はその程度の大雑把さで、異安心(いあんじん:宗祖の信心と異なる信心を持つ者)というらしいですが、どうでしょうか。